【二十六】「道場」 ~増えつづける道場の数~

2019.08.26

 真宗の教えのひろまりとともに、数を増していったのが道場で、ひとつの道場が建立されると、それによりさらに教えがひろまり、そこからまたあらたな道場が開かれていくというふうに、道場の数は教えの伸展にともなって増えつづけていきます。道場には地域の拠点として教えをひろめるとの役割がありますが、それとともに教えの存続ということでも大きな役割を担っています。時を重ねて教えを存続させるためには、どうしても道場のような恒常的な施設が必要となってきます。人から人へと伝えられるという真宗の教えにしても、道場があればこそ、絶えることなく、いまに守られたといえるでしょう。

 

 了源上人も道場の設営には熱心であったようで、上人の在世中、すでにかなりの数の道場が設けられていたことが、上人自身の主張からうかがえます。

 

コヽニ了源コノ十余年ヨリコノカタ、カノ明光ノ余流トシテ、京都トイヒ辺国トイヒ、コノ法ヲヒロメテ道場ヲカマへ、本尊ヲ安置スルコトソノカスステニオホシ(一味和合契約状)

 

 京都と辺国に法をひろめ、道場を構えたといっています。辺国との獏然とした表現がなされていますが、要は、京都と周辺地域ということで、了源上人の門弟の在所は京都のほか、周辺の摂津、河内、大和、近江、丹波などにも及んでいることから、それらを総称して辺国といったものとみられます。その数すでに多し、とされる道場の数がはたしてどれ位であったのかは明確にすることはできませんが、道場といっても、壮麗な荘厳をほどこしたものもあれば、それこそ本尊を安置するだけの簡易なものもあるわけで、そうした簡易な道場を含めると相当数の道場があったことは間違いありません。

 

 こういった道場の増加は、佛光寺のみに限ったことではなく、この時代の真宗の一般的な傾向といえるもので、覚如上人の『改邪鈔』には、それに対する批判もみえています。

 

遠近ことなれば、来臨の便宜不同ならんとき…あまたところにも道場をかまふべし。しからざらんにおいては町のうちさかひのあひだに、面々各々にこれをかまへてなんの要かあらん

 

 通う者の便宜上、いくつかの道場を構えることはやむをえないが、そうではないのに町なかにいくつもの道場を構えて何の必要があろうか、といっています。あわせて覚如上人が批判しているのが道場の寺院化ということで、覚如上人は、親鸞聖人の在世中には寺などなかったといって、それを批判しています。

 

聖人御在世のむかし…御門弟達、堂舎を造営するひとなかりき…御遺訓にとをざかるひと〱の世となりて造寺土木のくはだてにおよぶ

 

 道場の数の増加や規模の拡大は、いうなれば自然な成り行きであって、ことさらに批判されなければならないことであったとも思われませんが、道場の建立に際し、互いに造営を競うような面がみられたことから、こうした批判もなされたものと思います。

 

 道場の建立については、これとは逆の見方もあって、存覚上人の作といわれる『至道鈔』という本には、道場の建立をむしろ積極的にすすめる内容の主張がみられます。

 

念仏の行者、うちに信心をたくはへて心を浄土の如来にかくといふとも、道場をかまへて功を安置の本尊につむべし。自行化他の利益これにあるべきなり

 

 自行化他の利益があるものとして道場の建立がすすめられていますが、『至道鈔』には、こうして道場の建立を奨励するにとどまらず、さらに道場のもつ意義についてもくわしい説明が述べられています。これは、道場の増加という傾向のもと、何故に道場を開かなければならないのかと道場建立の意味が問われはじめたため、それへの対応として道場のもつ意義を述べたものと考えられます。『改邪鈔』と『至道鈔』とでは、逆の反応を示していますが、双方ともに、道場の増加という同じ状況を踏まえての発言だといえるでしょう。

 

 この時代の道場は、『改邪鈔』が指摘するように、一部で寺院化もすすみますが、大概は人家と変らぬ小規模なものであり、のちの時代の寺とはかなり様相が違っています。それだけに創設も容易で、増加の傾向にも顕著なものがあったとみられます。小規模だとはいえ、そうした道場によって、真宗の教えは各地に定着していったのです。

 

(熊野恒陽 記)

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