【二百四十六】承応の鬩牆 その五十五 江戸から天満へ

2022.06.25

   准秀上人は万治元年(一六五八)九月二十五日、江戸を立ち、天満へと向かいました。准秀上人に仕えた下間重玄は准秀上人に先だって、前日の二十四日に江戸を出立しています。この重玄は十月四日の晩、京都に到着しました。井伊直孝は大坂町奉行の松平重綱、曽我近祐、堺奉行の石河勝政、京都所司代の牧野親成、女院付の野々山兼綱、京都郡代の五味豊直たちに宛て、准秀上人、良尊上人への助成を依頼する書状を認めていましたが、これらの書状はそれぞれのもとへと届けるようにと重玄に預けられたものです。京都に着いた重玄は、翌五日、まずは京都所司代の牧野親成のもとに書状を届けました。

 

   准秀上人の逼塞中は、京都の興正寺、各地の興正寺の御坊、興正寺の家臣たちの住居は閉門ということになっていましたが、准秀上人が宥免されたことから、この重玄の屋敷も閉門が解かれることになります。

 

   当地下間式部卿宿、承応四年未八月ヨリ・・・閉門仕候処、今度十月四日、江戸ヨリ上洛ノ翌日ヨリ、開キ被申候(『承応鬩牆記』)

 

   十月五日に閉門が解かれたとあります。准秀上人と良如上人との争いは、学寮での西吟の講義の内容を月感が誤りだと主張したことから始まりますが、この学寮はもともと重玄の屋敷があった地に建てられたものです。学寮があったのは七条通りと堀川通りが交差する十字路の北西の角です。学寮はここにあった重玄の屋敷を取り壊して建てられました。その際には重玄に西本願寺から替地が与えられたと記録されています。その替地にすぐに住居が建てられたのかどうかははっきりとしませんが、重玄は当初から二箇所に屋敷を持っており、七条堀川の屋敷の地を学寮の地としてからは、もう一箇所の屋敷に住んでいたようです。もう一箇所の屋敷は現在の興正寺本山の阿弥陀堂門、三門のまっすぐ東側で、興正寺前の堀川通りのもう一筋東の西中筋に西面し、さらにもう一筋東の油小路に東面する地にありました。当時は堀川通りの道幅は六間三尺七寸しかなく、道が大幅に拡張された現在とは街の区画そのものが違っていますが、現在の区画でいうなら、大体、堀川通りを挟んで、阿弥陀堂門、三門の向かい側あたりが重玄の屋敷があった地になります。開門されたというのはこの屋敷だと思います。

 

   重玄は九月二十四日に江戸を出て十月四日に京都に着いています。万治元年の九月は月の大小でいうなら大の月で、九月は三十日までありました。重玄は十日ほどで京都に着いています。通常、江戸から京都までなら、男の旅人で十三、四日はかかります。役目があるとはいえ、かなり急いで帰ってきたということになります。これに対し、准秀上人の方は通常の行程で天満へと向かっていました。准秀上人は十月七日に近江国栗太郡の草津に到着しています。そして、そこから、山城国紀伊郡の伏見を経て、摂津国交野郡の枚方へと至っています。

 

   興門様ハ、十月七日、草津ニ御泊リ、八日ニ草津ヨリ大津、伏見、御通リ候テ、平方ニ御泊リノ由候(『承応鬩牆記』)

 

   平方とあるのは枚方のことです。十月七日は草津で宿泊し、八日は大津、伏見を経て枚方で宿泊したとあります。この後、准秀上人は枚方から天満へと向かい、十月九日のうちに天満の興正寺に到着します。

 

   准秀上人が天満から江戸に向かったのは明暦元年(一六五五)の四月二十五日のことです。その後、准秀上人は江戸から、越後に向かい、越後で丸三年を過ごしました。三年ぶりに天満に戻ったことになりますが、人びとは准秀上人が天満に戻ることを歓迎していました。准秀上人が立ち寄った地では、多くの人びとが准秀上人を出迎えています。

 

   大津、草津辺迄ノ御迎衆、六七十人計、伏見辺ニテハ二百人計、平方ヨリ天満ヘ御着ノ日ハ、守口辺ニテハ千四百人計在之由候(『承応鬩牆記』)

 

   大津、草津では六、七十人ばかりの人たちが出迎え、伏見では二百人、枚方から天満に戻った日には途中の茨田郡守口で千四百人ばかりの人びとが出迎えたとあります。千四百人という人数は大変に多い人数です。記録にはありませんが、天満興正寺の門前にはさらに多くの人びとが詰めかけたのだと思われます。准秀上人と良如上人の争いのもととなった、月感と西吟の争いについても、多くの人びとは月感に理があるとしていました。准秀上人と良如上人の争いでも多くの人びとは准秀上人を支持していたのです。

 

   (熊野恒陽記)

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