【二百四十七】承応の鬩牆 その五十六 京都興正寺の開門
2022.07.26
越後国を出た准秀上人は、万治元年(一六五八)十月九日、天満の興正寺に戻りました。准秀上人は逼塞を宥免され、天満に戻りましたが、准秀上人が宥免されるとともに月感も出雲国の松江藩の領内の地での逼塞を宥免されています。月感は万治元年の十月二十四日に逼塞していた地を立ち、十一月十七日に肥後国熊本の延寿寺へと戻りました。月感が寺に帰った際には、夥しい数の門弟たちが月感を出迎えました。
肥後ヘ帰寺ノ節、国中ヨリ迎ニ出候門弟、夥候由候(『承応鬩牆記』)
肥後の人びとは月感と西吟の争いが始まった当初から、一貫して強く月感を支持していました。
良如上人と准秀上人の双方が同意した准秀上人の宥免をめぐる五箇条からなる覚書では、准秀上人は天満に戻ったあとは、そのまま天満に住み、隠居するということになっていました。興正寺は良尊上人が継ぐということにされていました。この時、准秀上人は五十二歳、良尊上人は二十八歳です。良尊上人は准秀上人の逼塞中は天満の興正寺に住んでいました。准秀上人が天満に戻ったのなら、良尊上人は京都の興正寺に帰らなければならないのですが、良尊上人はなかなか京都に帰ろうとはしませんでした。京都の興正寺の建物が傷んでいて、すぐに住めるような状態ではなかったからです。そして、そのため京都の興正寺は閉門されたままで、閉門を解くということもありませんでした。
興門様御屋敷、イツカタモ打クヅレ大破ニ付、新門様御上洛、一日々々ト相延申候(『承応鬩牆記』)
新門様とは良尊上人のことです。興正寺の屋敷は大破していたため、良尊上人が京都に戻ることは一日、一日と延ばされていったとあります。屋敷ばかりではなく、京都の興正寺は全体が相当に荒れていました。
当夏大雨ノ中、御堂ノ橋抔モ落申候ヲ、十月二十七、八日頃ヨリ取付、霜月五日、六日頃ニ出来候、其上所々屏抔モ崩レ、大破ニ及候所、多候ニ付、十月中旬ヨリ修理普請候、御堂、広間、畳抔モ無之付、今度御上洛ノ後、畳モ四百畳計、新ク被誂候由候、修理畳等、大方出来候テ、門被開候由也(『承応鬩牆記』)
当夏とは万治元年の夏のことです。夏に大雨で御堂に通じる堀川に掛かる橋などが落ちたので、十月六、七日ころから橋の取り付けの工事を始め、十一月五、六日ころに完成したとあり、屏も崩れ、大きく破損したところも多かったので、十月の中旬から屏の修理や土木工事を行なったとあります。ここには普請と書かれていますが、普請とは土木工事のことです。これに対し、建築工事は作事といいます。さらに御堂、広間などの畳もないので、畳、四百枚を新しく誂えたとあって、それらの修理や畳の新調が、大方、済んだあと興正寺の開門をしたとあります。ここに畳、四百枚を新調したとありますが、これで当時の興正寺の大体の規模が分かります。この時代の興正寺の本堂は正面内部が七間の堂です。内陣、余間、外陣に敷かれた畳は九十枚ほどになります。残りの三百枚強が広間、屋敷などに敷かれたとすると、土間、板間を含め、本堂以外の建造物は二百数十坪ほどだったとみられます。それらの建造物の修理が、大方、済んで開門したのです。
霜月十七日ヨリ被開候(『承応鬩牆記』)
京都の興正寺の開門は万治元年の十一月十七日のことです。月感が延寿寺に戻ったのと、ちょうど同じ日になります。建物の修理が、大体、終わり、興正寺は開門したのですから、本来ならば、良尊上人は京都の興正寺に帰らなくてはなりません。ところが、良尊上人はそれでも京都に帰ろうとはしませんでした。良尊上人が帰らないため、京都所司代の牧野親成は良尊上人に早く京都に帰るように催促をするほどでした。良尊上人が京都に帰らなかったのは興正寺の建物が傷んでいたためだけではなかったのです。良尊上人としては、京都に帰って、これまで敵対してきた良如上人と親しくするということに抵抗があったのです。それでなかなか帰ろうとはしなかったのです。しかし、いつまでも帰らないということもできません。良尊上人は十一月二十六日の晩、六時ころに京都に帰ってきます。
霜月二十六日ノ酉刻、新門様御上洛候、御供ノ衆荷物等、美々敷体ニテ御上リノ由也(『承応鬩牆記』)
お供の衆や荷物などは優美であったとあります。翌二十八日の早朝、下間重玄は牧野親成に良尊上人が京都に戻ったということを報告します。
(熊野恒陽 記)