【二百四十九】承応の鬩牆 その五十八 興正寺に末寺を返す
2022.09.26
良尊上人は万治元年(一六五八)十一月二十七日、西本願寺で良如上人と対面し、良如上人と和解します。まだ准秀上人と良如上人は和解をしていませんが、准秀上人は隠居しており、良尊上人が興正寺の住持です。かたちの上では西本願寺と興正寺が和解したということになります。
良尊上人と良如上人が和解したことから、西本願寺はこれまで西本願寺の末寺として取り上げていた興正寺の末寺をもとのように興正寺の末寺へと戻します。この末寺を興正寺に返すということは江戸幕府が西本願寺に求めたものでした。
諸国之御下坊主衆、末々御門徒等、一人無相違、如前々、御返シ被成候様ニ、公儀ヨリ相極済申候(『承応鬩牆記』)
諸国の興正寺の末寺、門徒を興正寺に返すということは幕府が決めたことだとあります。准秀上人は末寺を取り上げられることに強い不満を感じていました。和解した上は、すぐに興正寺に末寺を返すべきだと幕府の関係者も考えていたのです。それまで西本願寺は興正寺の末寺を取り上げたのではなく、興正寺の末寺が自発的に興正寺の下を離れ、西本願寺の末寺となったのだと主張し続けていました。さすがに幕府の関係者もそのような主張を信じてはいなかったのです。
准秀上人は良如上人との対立から、承応二年(一六五三)の十二月の末、京都の興正寺から天満の興正寺へと移り住みます。これを受け、西本願寺はすぐに各地に使僧を遣わし、興正寺門下の坊主衆に今後は准秀上人には従わないと書いた誓詞を提出させています。この誓詞の提出をもって、西本願寺は興正寺の末寺を西本願寺の末寺としていったのでした。
こののち良尊上人と良如上人の和解まで、西本願寺が興正寺の末寺を西本願寺の末寺として扱っていましたが、それはこの期間に西本願寺が下した親鸞聖人の御影などの裏書からも確認することができます。江戸時代、西本願寺は末寺に親鸞聖人の御影などを下付する際には、下付したことの控えとするため『御影様之留』という記録に下付する御影の裏書を書き写してから下付をしていました。木像の本尊を下す際には、『木仏之留』という記録に裏書が書き写されました。この二つの記録は欠落があって、すべてがのこされているわけではありませんが、准秀上人と良如上人が争っていた期間のものとしては、『御影様之留』の明暦二年(一六五六)と明暦三年(一六五七)の分がのこっています。それをみると、この期間に興正寺の末寺に下された御影の裏書には興正寺との本末関係を示す文言が書かれていなかったということが分ります。
釈良如―
明暦二年丙申五月廿七日
蓮如上人 端坊下肥後国玉名郡玉名村
願主釈祐念
これは明暦二年に端坊下の肥後国玉名村の祐念に下された蓮如上人の御影の裏書を書き写したものです。端坊は興正寺の末寺頭であり、興正寺の末寺であることは明白です。本来ならば、これは「興正寺門徒端坊下肥後国玉名郡玉名村 願主釈祐念」と書かれなければなりませんが、興正寺門徒との文言が省かれているのです。要は西本願寺は端坊を興正寺の末寺ではなく、西本願寺の直参の末寺として扱っていたということです。明暦二年、三年にはこのほかいくつもの興正寺の末寺に御影が下付されていますが、それらの裏書には興正寺門徒との文言は書かれていません。
准秀上人と良如上人が争っていた間はこうして西本願寺が興正寺の末寺に下付した御影の裏書に興正寺門徒との文言は書かれていませんでしたが、西本願寺が興正寺の末寺を興正寺に返してからは興正寺の末寺に下付する御影の裏書の書き方も変わってきます。
釈良如
万治二歳十二月廿二日
大本親聖影 興正寺門徒性応寺下和州吉野郡
栃本惣道場永全寺住物也
これは良尊上人と良如上人の和解後の万治二(一六五九)年に性応寺下の大和国栃本村の永全寺に下された親鸞聖人の御影の裏書を写したものです。『御影様之留』の万治二年の 分に書かれています。大本親聖影とは大谷本願寺親鸞聖人御影を略したものです。性応寺は端坊とともに興正寺の末寺頭であった寺ですが、ここには興正寺門徒性応寺と書いてあります。性応寺を興正寺の末寺として扱っているのです。
(熊野恒陽 記)