【二百五十一】承応の鬩牆 その六十 准秀上人と良如上人の和解

2022.12.01

   万治二年(一六五九)二月十八日に京都に戻った准秀上人は、その後の二月二十二日、良如上人と和解します。

 

   二月二十二日、野々山丹州、五味備前守両人御出、興正寺殿御隠居、御所ヘ御同道候テ、御門跡様ト御中ナヲリ也(『承応鬩牆記』)

 

   二十二日、准秀上人が野々山兼綱、五味豊直とともに西本願寺の御所に赴き、良如上人と和解したとあります。野々山兼綱、五味豊直の二人は京都での准秀上人、良尊上人の活動の助成をするように井伊直孝から依頼されていました。前年の万治元年(一六五八)の十一月二十七日に良尊上人が良如上人と和解する際にも、この二人が和解の場に立ち会っています。

 

 准秀上人と良如上人が和解したことにより、准秀上人と良如上人の争いは、一応は収まったということになります。准秀上人と良如上人の争いは月感と西吟の対立から始まったもので、准秀上人が京都から天満に移る前からのものですが、准秀上人と良如上人の争いは准秀上人が天満の興正寺に移ったのち、より激しいものとなります。准秀上人が京都を離れ、天満に移るのは承応二年(一六五三)のことです。以後、五年以上を経て、争いは、一応、収まったのでした。

 

 准秀上人との和解が成立したことから、良如上人は四月の初め、家臣を江戸の井伊直孝のもとに遣わしています。准秀上人と良如上人の争いは、まず良如上人の側が准秀上人の非を江戸幕府に訴え、それに対しては准秀上人の側も良如上人の非を幕府に訴えたため、幕府が両者の裁定を行なうということになりました。その際、幕府は公に両者を裁くのではなく、井伊直孝を間に立て、内内に直孝が両者を仲裁するというかたちで、争いの解決をはかりました。その仲裁の条件として、良如上人は学寮を取り壊し、准秀上人は越後国に逼塞したのです。直孝が行なったのは両者の仲裁であり、最終的に直孝が求めたのは両者の和解です。ここにその和解が成立したのです。和解に至ったのも直孝の尽力であるということで、良如上人は直孝をはじめ幕府の関係者への礼のため家臣を江戸に遣わしたのでした。良如上人と同様に准秀上人もまた直孝や幕府関係者への礼のため下間重玄を江戸に遣わしています。

 

   こうして准秀上人と良如上人は和解をしましたが、この和解は両者が望んでなされたというものではなく、争いという不祥事をはやく終結させたいということからなされた、いうなれば、かたちだけの和解でした。両者の確執はその後も続いたのです。良如上人は直孝との准秀上人の処分をめぐっての交渉の際、准秀上人のことを、本来なら、死罪に処せられるべきなのだとまでいっています(『浄土真宗異義相論』)。それほど強い怒りを感じていたということです。そうした思いが簡単になくなるということはありません。一方の准秀上人も良如上人に対して、強い不満を感じていました。

 

   この和解に先だって、良如上人は良尊上人と和解していますが、確執は和解後の良如上人と良尊上人との間にもありました。

 

   一両人ノ所為故歟、於于今御遺恨深様ニ相見ヘ、旧冬報恩講中ニモ、近国ノ興正寺殿之御下坊主ノ中、今度興門様ヘ御馳走申仁ヲハ、御本寺ヘ逆意ノ仕合候間、御礼ハ成申間敷旨ニテ、無御対面(『承応鬩牆記』)

 

   良如上人に仕えた一人か二人の者がそう仕向けているためであろうか、いまだに良如上人と良尊上人の間には遺恨がのこされており、両者の和解後の昨年の報恩講の際も、良如上人は興正寺と本願寺が争った時に興正寺に味方した興正寺門下の坊主は、本寺である本願寺に逆らった者であるから、礼は受けないといって対面することもなかったとあります。そのほか、良尊上人と良如上人が和解した直後に興正寺門下の坊主たちが祝いのため良尊上人のもとを訪れましたが、これに対し、良如上人が家臣に命じて、それらの坊主たちを呼び出させて、良尊上人のもとを訪れたことを咎めさせ、以後、こうしたことをしないように注意させるということもありました。心ある人びとはそうした良如上人の行為を困ったことだと嘆いたのだといいます。

 

   有心人々、御咲止ニ存、嘆被申候、左様ノ儀ニテ、興門様御隠居モ、二月二十二日、御中ナヲリノ後、終ニ御所ヘモ御出不被成候キ(『承応鬩牆記』)

 

   良如上人がこうした振る舞いをすることもあって、准秀上人は和解後、ついに一度も良如上人のもとを訪れるということはなかったのでした。

 

   (熊野恒陽記)

PAGETOP