【二百五十二】承応の鬩牆 その六十一 准秀上人の示寂

2022.12.27

 准秀上人と良如上人は万治二年(一六五九)二月二十二日に和解します。四月には准秀上人、良如上人はともに家臣を江戸に遣わして、井伊直孝に和解に至ったことを報告しています。この和解の報告を受けてから二月後の六月二十八日、直孝は亡くなります。

 

   井伊掃部頭殿・・・於江戸御遠行候、七十歳也、弥以来当御所之事、御肝煎ノ御衆モ有間敷ト咲止存衆計候(『承応鬩牆記』)

 

 直孝が江戸において七十歳で亡くなったとあります。続けて、西本願寺では多くの人たちが、今後はもう直孝のように西本願寺のためにいろいろと世話をしてくれる人も出てこないであろうと、困惑したとも記されています。直孝は准秀上人と良如上人の仲裁のため、長い期間にわたって、多大な労苦を費やしてきました。両者の和解の報せに直孝は大きな喜びと満足とを感じたはずです。直孝の存命中に一応の和解に至ったということは、直孝はもちろんのこと、准秀上人や良如上人にとっても幸いなことでした。西本願寺では直孝のような人はもう出てこないであろうと多くの人たちが困惑したとありますが、これは要するに直孝がそれだけ西本願寺のために尽力していたということです。直孝は実力者として西本願寺を守ってくれるし、良い方向へと導いてくれると人びとは感じていたのです。

 

 直孝が亡くなってから一年後の万治三年(一六七〇)十月十二日には准秀上人が亡くなります。

 

   興正寺御隠居・・・夏比ヨリ御煩ニテ、七月末、天満ヨリ当地ヘ御上洛候テ、色々御養生候得共、終無御本復、十月十二日[未刻]七条不動堂ノ御下屋敷ニテ御遷化候(『承応鬩牆記』)

 

 准秀上人は万治三年の夏ころから体調を崩し、七月末に居住していた天満から京都に移っていろいろと治療を受けていましたが、回復することなく、十月十二日の午後二時に七条不動堂の地の下屋敷で亡くなったとあります。准秀上人は五十四歳で亡くなりました。准秀上人は越後国での逼塞の宥免後は天満興正寺に居住することになっていましたが、最期には天満から京都に移り、京都の地で亡くなったのでした。最期に京都に移ったのは、息男の良尊上人が京都の興正寺にいるということとともに、治療を受けるためだと思われます。

 

 准秀上人の遺体は、准秀上人が亡くなった十二日の晩、京都から天満へと搬送されます。遺体は船で天満へと搬送されました。搬送には良尊上人も同道していました。良尊上人は遺体と同じ船に乗って天満へと向かいました。

 

 その後の十月二十二日、天満の地で准秀上人の葬儀が執り行なわれました。西本願寺から御堂衆の上座、五人が遣わされ、その御堂衆により葬儀が行なわれました。興正寺住持の葬儀には西本願寺の御堂衆が遣わされ、導師をつとめるというのは当時の慣例です。

 

 准秀上人の遺骨は、その後、摂津国川辺郡塚口の興正寺の塚口御坊の境内地に埋葬されます。

 

 万治二年二月二十二日に准秀上人と良如上人は和解しますが、これはかたちばかりの和解であり、両者の確執はその後も続いていました。争いは続いたのです。その争いも、争いの当事者である准秀上人が亡くなったことで、ついに終息を迎えることになります。しかし、直接の争いは収まったといっても、この争いの影響はのちの時代にも及んでいくことになります。この争いはのちの時代の興正寺のあり方や西本願寺のあり方、そして、興正寺と西本願寺との関係というものに大きな影響を与えることになるのです。

 

   後ニハ延寿寺、永照寺、両寺ハ脇ニナリ、御門跡様ト興正寺殿トノ出入ニナリ、江戸ヘ両門跡御詰候事ニ成候、六十余州、自他宗之取沙汰、五三年之間、人口此事耳也(『承応鬩牆記』)

 

 月感と西吟の争いはやがて准秀上人と良如上人の争いとなり、准秀上人と良如上人が互いに相手の非を幕府に訴えることから、この争いは真宗のみならず、他の宗派でも話題となって、さらには日本国中の人たちまでもが、数年の間、この争いのことを口にしていたのだとあります。争いはひろく世間の注目を集めたものだったのです。この争いのもとになったのは教えの理解、すなわち教学をめぐる争論であり、それが興正寺を本寺だとする主張、すなわち本末関係をめぐる争論となっていきます。教学、そして、本末関係というものは江戸時代の仏教教団にとっては殊に重要に扱われたものでした。この争いはまさに西本願寺の教団の根幹を揺るがす争いであったのです。

 

 (熊野恒陽 記)

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