【二百五十三】良尊上人 鷹司教平の猶子となる
2023.01.29
准秀上人は万治三年(一六七〇)十月十二日に亡くなります。准秀上人はすでに隠居しており、興正寺の前住持として亡くなりました。准秀上人が亡くなった時の興正寺の住持は良尊上人です。良尊上人は准秀上人の越後国での逼塞の宥免後に興正寺の住持になりました。興正寺の第二十世の住持とされています。
良尊上人が生まれたのは寛永八年(一六三一)八月六日のことです。父は准秀上人、母は西本願寺の准如上人の娘の祐秀尼です。母親は違いますが、この祐秀尼の弟にあたるのが、准秀上人と争った良如上人です。良尊上人が得度したのは正保四年(一六四七)の一月のことです。十七歳の時でした。良尊という法名を名乗ったのはこれ以後ということになります。得度ののち、良尊上人は法名、良尊とともに圓超という諱を名乗ります。普通、興正寺の住持がいわゆるご消息を書く時には、ご消息には住持の名として住持の法名が記されます。准秀上人の書いたご消息や准秀上人の父、准尊上人のご消息には、准秀、准尊との法名での署名があります。准秀上人の諱は昭超ですが、准秀上人がご消息に昭超と署名することはありません。諱の昭超が用いられるのは私的な書状に限られます。ところが、良尊上人の場合は、ご消息をはじめとして、署名する際には、ほぼ圓超と署名しています。良尊上人以後の住持もご消息などに署名する際は、皆、法名を用いています。圓超という諱を用いるというのは良尊上人にみられる大きな特徴だということができます。
この良尊上人は鷹司教平の猶子となっています。興正寺の住持の嫡子は五摂家の一つである鷹司家の猶子となることが慣例となりますが、最初に鷹司家の猶子となったのはこの良尊上人です。江戸時代、西本願寺の学僧である玄智は西本願寺の歴史をまとめた『大谷本願寺通紀』を著わしますが、そこにも良尊上人が鷹司家の猶子となったということが書かれています。
良尊 諱圓超・・・始為鷹司房輔公猶子
良尊上人が興正寺では初めて、鷹司房輔の猶子となったのだとあります。興正寺の住持の嫡子が鷹司家の猶子となるのは良尊上人に始まることなのだということは江戸時代にはひろく知られていたことだったのです。ここで玄智は良尊上人は鷹司房輔の猶子となったとしていますが、これはいささか正確さを欠いた記述です。正確にいうなら、良尊上人は初め、鷹司教平の猶子となり、その後、鷹司房輔の猶子となったということになります。教平と房輔は親子です。教平は慶長十四年(一六〇九)に生まれ、寛文八年(一六六八)に亡くなります。その子の房輔は寛永十四年(一六三七)に生まれ、元禄十三年(一七〇〇)に亡くなります。房輔は良尊上人より年下です。最初から房輔の猶子となったというのであれば、良尊上人は自分より年下の人物の猶子となったということになります。興正寺の第二十七世の住持とされる本寂上人は江戸時代の末期、『華園略系図』と題した自分へと至る興正寺の住持の家の系図を作成しています。本寂上人は明治時代に興正寺を真宗の一本山として独立させた人物です。その本寂上人の作成した『華園略系図』には良尊上人は最初、鷹司教平の猶子となったと書いてあります。
最初鷹司教平公猶子
そして、この鷹司教平の名の教平公とある部分の左横には並べて、房輔公、と書いてあります。最初は教平の猶子であり、その後、房輔の猶子となったという意味です。本寂上人は鷹司家に生まれ、その後に興正寺を継いだ人物です。当然、鷹司家の家の伝承を熟知しており、鷹司家と興正寺の住持の家の猶子関係が誰から始まることなのかということを知らないはずはありません。本寂上人が記している通り、良尊上人は教広の猶子であり、その後に房輔の猶子になったのです。
良尊上人がいつ教平の猶子となったのかははっきりしませんが、おそらくは得度の直前のことと思われます。父の准秀上人が教平に依頼して、猶子にしてもらったということになります。猶子というのは仮の子ということであり、地位の高い人の猶子となると、猶子もまた仮の子として高い地位の人として遇されます。西本願寺は、本願寺の第十世の証如上人が戦国時代に九条尚経の猶子になって以来、九条家の猶子になるのが慣例になっています。准秀上人と争った良如上人は九条幸家の猶子です。九条家も五摂家の一つであり、九条家と鷹司家は同等の家格です。准秀上人が良尊上人を鷹司家の猶子にしてもらったというのは、西本願寺への対抗だとみることができます。
(熊野恒陽 記)