【二百五十四】興正寺の復興 その一 再度の修復工事

2023.02.23

   良尊上人は父の准秀上人の存命中に興正寺の住持になります。准秀上人は越後国での逼塞を宥免され、万治元年(一六五八)十月九日に天満の興正寺に戻ってきます。この時、准秀上人は隠居します。准秀上人の隠居にともなって、良尊上人が興正寺の住持になりました。良尊上人が住持となったあと、最初に取り組んだのは京都の興正寺の修復工事です。准秀上人が越後で逼塞している間は、京都の興正寺は閉門とされ、良尊上人も京都の興正寺ではなく、天満の興正寺で過ごしていました。そうしたことから京都の興正寺は相当に荒れていました。京都の興正寺の修理は万治元年の十月中旬ころに始まり、十一月の中旬ころに、とりあえず、終わります。そして、それに合わせ、京都の興正寺は十一月十七日、閉門を解いて開門します。良尊上人はその後、十一月二十六日に京都に戻り、二十七日に良如上人と和解します。

 

   十一月中旬に興正寺の修理が終わったとはいえ、この修理は短期間のうちになされたものであり、十分に満足のできるものではありませんでした。そのため良尊上人は翌万治二年(一六五九)になって、改めて、興正寺の修復工事に取り組むことになります。

 

   態染筆候、然者、京都御堂ならひに対面所以下、頽破せしめ候につき、造営の義、思ひ立候、雖然、予の力にてハ、相叶ひかたきにより、諸国の門葉を頼ミ、是を成就せんとおもひ候、今此度の義に候間、ミなゝゝ懇志を抽られ候て、随分、馳走於有之ハ、誠に本望たるへく候(「興正寺文書」)

 

   これは六月二十二日付の伊勢国の惣坊主衆中、同門徒衆中に宛てた良尊上人のご消息です。ご消息の署名は良尊上人の諱である圓超になっています。諱で署名するのは良尊上人の大きな特徴です。京都の興正寺の御堂、ならびに対面所などが荒廃しているので、その造営を思い立ったとあり、続けて、自分の力だけではそれも出来ないので、諸国の門下の人びとの協力を願いたいと述べられています。このご消息には、六月廿二日、とあるだけで、年付はありませんが、御堂と対面所が荒廃していて、それを造営するといっていることから、万治二年のものであることは間違いありません。万治元年に行なわれた修理だけでは満足がいかないので、さらに修理を重ねるというのです。このご消息の御堂、対面所の造営を思い立ったという書き方では、良尊上人は御堂と対面所の建て替えを望んでいるようにも読み取れますが、興正寺がこの後に建て替えられたような形跡はないことから、この造営とは修復工事のことをいっていることになります。

 

   この修復工事は閉門により荒廃した建物の修復ということですが、良尊上人はこの修復を単に建物の修復とだけ考えていたわけではないようにも思われます。閉門の間は興正寺の教化活動も休止していました。良尊上人はこの修復工事を休止していた教化活動を再開させる機会とも捉えていたようです。さらには、良尊上人は興正寺の修理を通し、興正寺の門下を活気づけようとしていたようにも思います。いうなれば、この修復工事は興正寺全体を復興させるものだったのです。

 

   良尊上人が修復工事を教化の機会としようとしていたことは良尊上人のご消息からも窺われます。ご消息には真宗の教えのことがかなり長く述べられています。

 

   抑、開山聖人御相伝の安心と申ハ、経ニハ一向専念無量寿仏と説、釈にハ一心専念弥陀名号と候得ハ、万善自力の扱をはなれ、一筋に阿弥陀仏に帰命し奉れハ、如来ハよくしろしめして、其一念を大光明の中に摂取し給ふ故に・・・をのつから浄土の門に入といへり。かゝる造悪不善の我等を、やすく助まします難有さ、貴さのあまりには、唯、南無阿弥陀仏々々々々々と唱て、仏恩を報すへきはかり也

 

   親鸞聖人が示した安心とは、自力に頼るものではなく、専らに阿弥陀仏に帰命することであり、そうすれば、それによって如来の光明の中に摂取され、自然に浄土に往生するというものであるとあって、続いて、我らはそうした如来のありがたさ、尊さに対し、報恩のため名号を唱えるべきだとあります。真宗の教えの基本となることを説いたものといえます。

 

 満寺二年の興正寺の修復工事は休止していた教化活動の再開の機会ともなりましたが、この教化活動は、両村上人にとってみても住持となって初めて行なう教化活動となるものでした。良尊上人は意気込んでこの教化活動に取り組んだのだと思います。

 

 (熊野恒陽 記)

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