【二百五十五】興正寺の復興 その二 各地の門下に宛てご消息を書く

2023.03.30

   良尊上人は伊勢国の惣坊主衆中、同門徒衆中に宛てて、万治二年(一六五九)の六月二十二日付で、ご消息を記しています。ご消息には京都の興正寺の御堂、対面所が荒廃し、修理をしたいので協力を願いたいと書いてありました。良尊上人がご消息を書いて、興正寺の修復工事の協力を求めたのは伊勢の門下ばかりではありません。良尊上人はこのご消息以外にも、修理への協力を求めるご消息を書いています。修理への協力を求めたご消息としては、伊勢の門下宛のご消息以外に、七月二十五日付の、堺、和泉国、紀伊国の惣坊主衆中、同門徒衆中に宛てた一通、八月十八日付の、山城国、摂津国上郡、河内国の惣坊主衆中、同門徒衆中に宛てた一通、九月五日付の、丹波、但馬、因幡、伯耆、出雲の惣坊主衆中、同門徒衆中に宛てた一通、九月八日付の、長崎の惣坊主衆中、同門徒衆中に宛てた一通の、計、四通のご消息があります。

 

 良尊上人はこの修復工事を休止していた興正寺の教化活動の再開の機会とし、この修復工事を通して門下を活気づけようともしていました。いうなれば修復工事により興正寺全体を復興させようとしていたのです。このため伊勢の門下に宛てたご消息では真宗の教えのことがかなり長く述べられていましたが、他の地域に宛てられたご消息でも同様に真宗の教えのことがかなり長く述べられています。

 

   真実に安養の往生をねかわん輩は、凡夫自力のはからひをやめて、我身ハ現に煩悩具足の徒者なれハ、出離生死の縁あることなしと見かきりつめて、弥陀覚王の大願業力に乗しぬれハ、もとより機法一体、願行円満の道理あるかゆへに、我等の往生の一段におゐてハ、夢々、うたかふ事有へからす、寔に、口に称し、身に礼し、心に念するも、みなこれ他力のあらハれなれハ、仏恩の広大なる事を案するにつけても、師徳の深厚なる事を思ふによそへても、南無阿弥陀仏々々々々々々と唱て、念々をこたらされハ、はからさるに仏恩報謝にそなハる事にて候(「興正寺文書」)

 

 九月八日付の長崎の門下に宛てたご消息の一部です。往生を願う人は、自力のはからいをやめ、阿弥陀如来の仏力を頼むのであれば、往生のことは決して疑ってはならない、往生はもう決まっているのであるとあって、口に名号を唱え、身に仏を礼し、心に仏を念ずるのも他力の表われであり、仏恩の広大であること、師徳の深厚であることを思うにつけても、念仏を唱えれば、それは報恩の行となるのだとあります。真宗の教えの基本となることが説かれています。ご消息であるため、難解なことではなく、基本となることが説かれるのです。良尊上人は修理への協力を依頼するとともに、こうして真宗の教えの基本を説いていったのです。

 

 良尊上人はこうして修復工事への協力を依頼するご消息を書きましたが、これとは別に特定の目的を示さず、単に寄進を依頼するご消息も書いています。

 

 態染筆候、然者、近年、勧化の義、相遠さかり、其辺同行中、弥法義無油断被相嗜候哉、無心元覚候、就其、正恩寺指遣し候、各々、随分馳走之義、頼入候(「興正寺文書」)

 

 六月二十五日付の、越前国、越中国、伊勢国の惣坊主衆中、惣門徒衆中に宛てたご消息です。近年、勧化ということから遠ざかっているとありますが、これは興正寺の教化が休止し、数年、教化が行なわれていなかったことをいったものです。次いで、しばらく教化が行なわれていなかったため、それぞれの地域で法義が相続されているのか心配であるので、使僧として正恩寺を派遣したとあり、加えて、分に応じた寄進への協力などを頼みたいと書いてあります。こうして修復工事への協力を求めるのではなく、数年、教化が行なわれていなかったことに触れた上で、目的を示さずに寄進を依頼するご消息は、このほか、八月十七日付の紀伊国の惣坊主衆中、同門徒衆中に宛てた一通、二月二日付の但馬国の惣坊主衆中、同門徒衆中に宛てた一通があります。内容からみて、六月二十五日付のものと八月十七日付のものは万治二年、二月二日付のものは万治三年(一六六〇)のものとみてよいと思います。そして、これらのご消息でも真宗の教えのことが長く述べられています。まさに教化ということに重点を置いたご消息だといえます。良尊上人は修復工事への協力を求め、それによって門下を活気づけていくとともに、こうしてご消息による教化を行なうことでも門下を活気づけようとしていたのです。 

 

 (熊野恒陽 記)

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