【二百五十八】月感の死 最期まで頑なに

2023.07.15

   月感は出雲国での逼塞を宥免されたのち、万治元年(一六五八)十一月十七日に肥後国熊本の延寿寺へと戻りました。月感が逼塞している間は延寿寺も閉門とされていました。延寿寺には圓尊師がいて、月感を迎えました。圓尊師は准秀上人の息男であり、良尊上人の弟です。圓尊師は寛永十三年(一六三六)の生まれで、慶安元年(一六四八)、十三歳で月感の養子となりました。月感には跡取りとなる息男がいました。それでも月感は圓尊師を養子として寺に入れたのでした。月感は、仏法の興隆のためと、寺の末代までの繁栄のために圓尊師を寺に入れたのだといっています。

 

   逼塞を宥免されたことから、月感はその後は以前のように自由な活動ができるものと思っていました。しかし、そうはなりませんでした。熊本藩の家老などの指示により、熊本に戻ったあとも活動を制限され、逼塞しているような生活を強いられたのです。月感は熊本に戻ってから六年後に、この六年間は一度の説法すら行なっていないと述べています。

 

   雲州よりまかりかへり、はや六箇年の間、一句の説法をも不仕(『月感大徳年譜』)

 

   月感が行なっていたのは、小人数の寄り合いでの法談や、門徒や弟子との手紙のやり取りといったことでした。家老は月感を警戒していたのです。

 

   こうした状況の中、月感は寛文五年(一六六五)、西本願寺の門下を離れ、東本願寺の門下になることを決意します。檀家の人たちも、皆、それに賛成しました。月感はこれまで、一貫して、西本願寺を批判してきました。しかし、ここで問題が生じます。月感は以前から隠居していて、延寿寺の住持は圓尊師でしたが、住持の圓尊師が東本願寺の門下になることに反対したのです。圓尊師は興正寺の良尊上人の弟です。東本願寺の末寺になるということは、延寿寺は興正寺の末寺ではなくなるということです。この時代、西本願寺と東本願寺は互いに正統を主張し、激しく対立していました。その対立する派に属することになるのです。興正寺は西本願寺と争ったものの、すでに西本願寺とは和解しています。争いを起こした准秀上人と良如上人もすでに亡くなっており、月感と争った西吟ももう死亡しています。圓尊師は、今となっては東本願寺の末寺となる必要はないのではないかと考えたのでした。

 

   この月感と圓尊師の意見の対立から、結局、圓尊師は寺を出ることになります。圓尊師は月感の娘と結婚しており、二人には清寿丸という男子がいました。清寿丸は月感の孫ということになります。清寿丸は寛文四年(一六六四)の生まれで、寛文五年には二歳でした。圓尊師はこの清寿丸を寺の跡継ぎとして延寿寺にのこし、寺を出たのでした。圓尊師の妻となっていた月感の娘も圓尊師に従いました。二人が向かったのは京都の興正寺です。二人は寛文五年の十月に熊本を出て京都へと向かいました。

 

   延寿寺はその後の寛文六年(一六六六)の正月に正式に東本願寺の末寺となります。この時、東本願寺は延寿寺に院家の寺格を免許しています。そして、寛文十年(一六七〇)、清寿丸は東本願寺で得度します。得度後、清寿丸は法名、常隆を名乗り、東本願寺の末寺となった延寿寺を継きます。

 

   月感は東本願寺の門下になる際、熊本藩の藩主にそれを知らせるとともに、これまで逼塞しているような生活をしてきたということを伝えています。藩主に伝えたことで、以後は活動の制限もなくなったようです。

 

   月感は頑なな性質で、西吟との争いでも執拗なまでに西吟に批判を加えていきましたが、自分が間違っていると思ったことを徹底的に批判するという月感の性質は、月感の晩年の言動の中にもみることができます。月感と同じ肥後で生まれた僧に鉄眼という僧がいます。鉄眼は黄檗宗を開いた隠元の弟子で、一切経の刊行を志して、浄財を募って六万枚もの版木を作製し、いわゆる鉄眼版の一切経を刊行したことで知られています。この鉄眼は最初は西吟の弟子であり、その後に隠元の弟子になりました。黄檗宗の僧となってからは、肉食、妻帯を許容する真宗の教えを蔑み、大坂や江戸で真宗を誹謗することがあったのだとされます。月感は真宗の教えを捨てた上、真宗を誹謗するこの鉄眼を恨み、臨終の時まで鉄眼を論破するといって意気込んでいたのだといいます。間違った行ないをする者は決して許すことができないのです。その月感も延宝二年(一六七四)九月五日に七十五歳で死亡します。眠るが如くに死亡したのだと伝えられます。 

 

   (熊野恒陽 記)

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