【二百五十九】高松御坊の再建 その一 再建についての本寂上人の見解
2023.07.30
良尊上人は門下を活気づけ、興正寺全体の復興をはかるため、興正寺の御堂の修理や、天満御坊、塚口御坊、高松御坊の修復や再建に取り組みました。このうち高松御坊の再建については、八月十日付の讃州、阿州の惣坊主衆中、同門徒衆中に宛てたご消息で、高松御坊の再建への協力を依頼しています。
高松御堂の義、年月久敷ふりて、大破にをよひ候につき、再興の義、思立候(「興正寺文書」)
このご消息はほぼ同一の内容のものが二通のこされています。そのうちの一通には本文とは別に、のちに書かれた書き込みがあります。
万治弐年八月十二日ニ天満罷立、霜月十二日ニ上洛也
この書き込みのあるご消息は三光寺が使僧として、四国に持参し、四国で披露したもので、ご消息のなかに三光寺の名が明記されています。
法義相続の旨、肝要に候、為其、三光寺差越候
三光寺は興正寺の天満御坊の留守居をつとめていた寺です。書き込みの意味は、三光寺は万治二年(一六五九)の八月十二日にこのご消息を携えて天満を出立し、十一月十二日にご消息を携えて京都の興正寺に戻ってきたということです。三光寺は八月から十一月まで四国に滞在し、ご消息を披露して門下に高松御坊の再建への協力を呼びかけたのです。
二通のこされているご消息のもう一通では、この使僧の名が勝法寺となっています。勝法寺は高松御坊の留守居をつとめていた寺です。ご消息は讃岐国と阿波国の門下に宛てられたもので、それが二通あるということは、一通は讃岐、もう一通は阿波の門下に宛てられたものということになります。勝法寺は讃岐の寺ですから、勝法寺は讃岐を回り、ご消息を披露して門下に再建への協力を呼びかけ、三光寺は阿波国を回って、門下に再建への協力を呼びかけたものとみられます。
その後、高松御坊は再建されますが、この良尊上人による再建については、興正寺の第二十七世の本寂上人がご消息のなかで、それに言及しています。高松御坊は良尊上人が建て直したあと、江戸時代の後期、本寂上人が興正寺の住持であった時に、さらに建て直されることになります。そのため本寂上人は自身が書いた高松御坊の再建への協力を求めるご消息のなか、良尊上人による再建について言及しているのです。
其地、高松別院御堂の事、受楽院僧正創立以来、数多の星霜を経て、頽破せしめ候につき、去し文政乙酉のとし、再建の募縁を致せしよりこのかた(『本寂上人御消息全集』)
受楽院は良尊上人の院号です。高松別院の御堂は良尊上人が創立したとあります。良尊上人が御堂を再建したということをいっているのです。このご消息は天保十五年(一八四四)に書かれたもので、内容は文政八年(一八二五)から再建のための勧進を行なってきたが、まだ十分ではないので、勧進に協力してもらいたいということが述べられていきます。本寂上人による高松御坊の御堂の再建はなかなか進まず、御堂が再建されるのはこれからさらに数年後のことです。
本寂上人はご消息を書くと、手控えとして帳面にそのご消息の文を書き写していました。この高松御坊の再建への協力を依頼するご消息もその手控えの帳面に記されているものです。そして、その帳面にはこのご消息だけではなく、良尊上人の高松御坊の再建についての本寂上人の書き入れものこされています。
受楽院僧正御代、万治三年御書製作にて、高松御堂御再興、続て寛文年中成就歟、寛文之度々文書、寄附帳等有之云々
本寂上人は、良尊上人は万治三年(一六六〇)にご消息を書いて御坊の再建に取り組みはじめ、その後、寛文年間(一六六一―七三)に御堂が完成したようだと記しています。さらには再建に関係する寛文年間の文書や寄付帳があるのだと聞いているとも記されています。本寂上人も万治二年の良尊上人のご消息から、その年に御坊の再建が始まったとみているのです。本寂上人は良尊上人のご消息を万治三年のものとしていますが、これは万治二年のものとしなくてはなりません。何か誤解があったようです。ご消息とともに、本寂上人は寛文年間の寄付帳などがあるとして、そこから寛文年間に御坊の御堂が再建されたとしています。しかし、御堂の完成は寛文年間とされるだけで、それがいつなのかは記されていません。いつ完成したのかは、本寂上人にも分からなかったのです。
(熊野恒陽 記)