【二百六十二】高松御坊の再建 その四 安養寺の伝え
2023.10.25
興正寺に蔵される『寛政五年讃岐国出役記』と題された記録に写された常光寺の由緒書には、松平頼重が高松藩の藩主だった時、常光寺は良尊上人から、氷上村から高松は遠いので、高松御坊のある御坊町に、休息所とするため間口四間の土地を拝領したと書かれていました。この常光寺と同様に、御坊町に間口四間の土地を拝領したと伝える寺がもう一箇寺あります。讃岐国香川郡川内原村にあった安養寺です。安養寺の由緒書も『寛政五年讃岐国出役記』に写されています。
江戸時代には、当初は常光寺と安楽寺、その後は常光寺と安養寺は高松御坊の御堂の諸事を取り仕切っていました。『寛政五年讃岐国出役記』に写された常光寺の由緒書では、高松御坊の御堂の諸事は、当初は常光寺と安楽寺が取り仕切っていたが、その後、安楽寺に替わって安養寺が御堂の諸事を取り仕切るようになったのだと書かれています。安楽寺が藩主、松平頼重に対し、無礼な振る舞いをしたので、頼重が安楽寺の高松御坊への出勤を止めさせたのだというのです。ところが、安養寺の由緒書では、当初、安楽寺が御堂の諸事を取り仕切っていたということは全く触れられていません。高松御坊が現在地に移った慶長十九年(一六一四)の当初から、安養寺は高松御坊配下の寺の中では特別な位置にあり、その後、御堂の諸事を取り仕切るようになったのだと述べられています。両寺の主張は矛盾することになりますが、おそらくこれは高松御坊が現在地に移された当初から、安養寺が安楽寺の名代をつとめていたということなのだと思います。安楽寺の所在地は讃岐国ではなく、阿波国三好郡郡里村です。高松御坊が現在地に移された際、安楽寺は常光寺とともに、御堂の移築工事の諸事を取り仕切ったと伝えられますが、そうであるなら、安楽寺は長期にわたって高松に滞在したか、頻繁に高松と郡里村を往復していたということになりますが、高松と郡里村は離れており、頻繁に往復するというのはかなり大変なことです。そのため当初から安養寺が名代をつとめていたのではないかと思われます。そして、その後、松平頼重の命により、安養寺が安楽寺に替わって、正式に御堂の諸事を取り仕切る地位についたということなのだと思います。そこから安養寺は由緒書で、当初から特別な地位にあり、その後、諸事を取り仕切るようになったのだと述べているのだとみられます。安養寺は安楽寺の末寺ですが、末寺の中でも筆頭の末寺です。加えて、安楽寺と安養寺の住持は同族の関係にあります。
寛正年中、三好信濃守義長卿御取持、阿州安楽寺舎弟正祐と申僧被再建、讃州香川郡川内原村ニ寺建立仕、本尊安置仕
安養寺の由緒書には寛正年中(一四六〇―一四六六)、安楽寺の住持の弟の正祐が、三好義長の取り持ちによって、川内原村に寺を建立したのだとされています。これとは別の伝えでは、讃岐の東部地域に安楽寺の門徒が多くいたため、安養寺が開かれたともいわれています。安養寺は創建のはじめから、讃岐の東部地域にあって、安楽寺の代理をしていたように思われます。
御坊、高松江御引移、御再建之砌、御普請見繕被仰付、御成就以後、普請出精之段、奇特被思召、為御褒美、蓮如上人御筆御名号、並、御色衣頂戴、御堂出仕之節、座配等格別御免被成下候
こうして、安楽寺の名代として、慶長十九年の御坊の現在地への移転の際も、安養寺は移築工事の諸事を取り仕切ったとされます。そして、それに励んだため、御坊の完成後、褒美として、蓮如上人筆の名号と、色衣を頂戴するとともに、御堂への出仕の時、特別に上座に着くことを許されたのだと述べられています。常寺の由緒書でもこれと同様のことが書かれていました。
龍雲院様御代、御坊御堂附之諸役、一宗触事等、諸事、氷上村常光寺、川内原村安養寺江被仰付、相勤罷在候、依之、為休息所、御坊御境内御坊町ニおよひて、右両寺江表間口四間宛、屋敷地被下置、只今ニ所持仕候
その後、松平頼重が高松藩の藩主であった時代となって、安養寺は常光寺とともに、御坊の御堂に関わる諸役と、藩や本山からの通達の伝達を行なうように仰せつけられ、それを行なっていたところ、両寺は休息所の用地とするため御坊町に間口四間の土地を拝領し、いまも所持していると述べられています。これも常光寺の由緒書に同様のことが書かれていました。常光寺、安養寺はともに拝領した土地をいまも所持しているといっているのですから、両寺は間違いなく御坊町に間口四間の土地を拝領しているのです。
(熊野恒陽 記)