【二百六十三】高松御坊の再建 その五 松平頼重による御坊の整備
2023.11.29
『寛政五年讃岐国出役記』に載せられた常光寺、安養寺の由緒書には、常光寺、安養寺はともに、松平頼重が高松藩の藩主であった時、高松御坊がある御坊町の地に、間口四間の土地を拝領したと書かれていました。この二箇寺が土地を拝領したことは間違いのない事実と認められます。
其節ハ常光寺、安養寺、隔月、高松御坊江相詰、御堂相勤候
安養寺の由緒書には、高松御坊の御堂に関わる諸事は、常光寺と安養寺の二箇寺が月替わりで御坊に詰めて、取り仕切っていたとあります。そのため、休息所の用地とするため土地を拝領したのです。この両寺はともに高松御坊が現在地に移転した時から、御坊配下の寺の中では特別な地位にあり、その後、松平頼重が藩主であった時、両寺が月替わりで御堂の諸事を取り仕切るようになったと伝えていました。これについて明治二年に書かれた常光寺の由緒書には、松平頼重が藩主であった時に、高松御坊は再建され、その際、再建工事の諸事を常光寺と安楽寺が取り仕切ったことから、再建後、この二箇寺が御堂の諸事を取り仕切るようになったとありました。常光寺の伝えでは、そののち安楽寺に替わって安養寺が御堂の諸事を取り仕切るようになったとされています。つまりは、寛文二年(一六六二)の御坊の再建を契機に常光寺と安養寺が御堂の諸事を取り仕切るようになり、この両寺が御堂の諸事を取り仕切ったことから、両寺は間口四間の土地を拝領しているのです。良尊上人による高松御坊の再建は、単に御堂の建て替えというよりも、御坊の周辺の区画そのものを変更するような大規模なものであったことをうかがわせます。そして、これは藩主である松平頼重の協力のもとなされたものだったのです。御坊の再建後、常光寺と安養寺は御坊町に土地を拝領しますが、御坊周辺の地の変化はこれだけではありません。
常光寺、安養寺・・・寺役等指支申候ニ付、御願申上、常光寺末寺覚善寺、安養寺末寺西福寺、右両寺、為名代、御坊門前ニ寺建立仕
安養寺の由緒書によると、頼重が藩主だった時、常光寺と安養寺は御堂の諸事を取り仕切っていたものの、寺役が忙しいこともあるので、それぞれが末寺の覚善寺と西福寺を名代とし、その覚善寺と西福寺の建物を御坊の門前に建立したとあります。高松御坊はそれまでと大きく様変わりしたのです。さらに元禄二年(一六八九)には、安養寺そのものが川内原村から高松御坊のある御坊町の隣町に移転します。
依龍雲院様達御聴、元禄二年、高松御坊町之隣町江、寺地拝領仕、川内村之堂等、引移相続仕候
安養寺の由緒書には、安養寺は松平頼重の許しを得て、堂などを引き移したとあります。そして、その移転先の寺地は頼重から拝領したものだと述べられています。御坊の再建、御坊の周辺の地の区画の整備には松平頼重が大きく関わっているのです。
高松藩の家老であった木村黙老の著わした『聞まゝの記』には、高松御坊は寛文二年に現在地に移転し、松平頼重が門前町等を寄付したと書かれていました。
寛文二年、龍雲院様、今の土地へ御建立被遊、門前町等御寄附被在、一宗総録所に被仰付
黙老は寛文二年の御坊の再建を、御坊の移転と取り違えていますが、ここに書かれた門前町を寄付したというのは、御坊の再建にあたって、高松御坊に周辺の地を与えたということを述べているようにも思われます。『聞まゝの記』には高松御坊の寺地は、東西百間半、南北五十二間で、東西百間半のうち八間は常光寺と安養寺の寺地だと書かれています。常光寺と安養寺の寺地を含めると、五千二百坪を超えるかなり広い寺地です。江戸時代の中期にはそれだけの寺地があったのです。頼重が御坊に土地を与えたこともあって、こうした広さとなったのだとみられます。
この時、再建された高松御坊の御堂や玄関には、亀甲を三つ配した三亀甲の紋所が掲げられていました。
往古より本堂、玄関等ニ三ツ亀甲之紋付居申候所、此度、建更候玄関紋所、古形と相違有之(『高松御坊一件留』)
高松御坊はこののち本寂上人によって建て替えられますが、本寂上人による建て替えの時からは、玄関には古くからの三亀甲紋ではなく、別の紋所が掲げられることになります。これに対しては不満を抱いた人も多かったようです。三亀甲の紋所こそが、高松御坊の本来の紋所なのだとされていたのです。
(熊野恒陽 記)