【二百六十四】朱印地の寺領 格式を高めるため頼重が寺領を朱印地に

2023.12.25

 高松御坊の再建、整備にあたっては、高松藩の藩主、松平頼重による多大な援助がありました。頼重からの援助はこの高松御坊の再建への協力だけにとどまるものではありません。讃岐国には興正寺の寺領がありましたが、頼重はその寺領をめぐっても、興正寺のためになるよう、いろいろと気を配っていました。

 

 興正寺の寺領は、元来、楠川の河口部東側の地にありました。楠川は高松市内を流れる現在の御坊川のことと思われます。この楠川沿いの寺領は讃岐を支配していた生駒親正から寄進されたものです。この地を寄進されたことで、高松御坊の前身の坊はそれまでの四覚寺原の地から、この楠川沿いの地へと移ります。この地に移ってからは、坊は楠川御坊と呼ばれました。その後、慶長十九年(一六一四)、坊は現在の高松市御坊町の地へと移ります。この御坊町への移転後も、楠川沿いの地は興正寺の寺領としてそのまま安堵されていました。この楠川沿いの地が興正寺の元来の寺領です。しかし、この地には興正寺の寺領と他の領地とが入り組んで存在したため、寺領として治めるには何かと手のかかる地でもありました。そこで頼重は寛文八年(一六八六)、この地に替え、あらたに別の地を寺領として興正寺に寄進しました。頼重が寄進したのは香川郡箆原郷福岡村の地です。福岡村は現在の高松市福岡町にあたります。寺領の規模は百五十石でした。そして、頼重はこの地を頼重自身が寄進したのではなく、将軍が寄進したというかたちにしようとしました。

 

 江戸時代、寺領は朱印地と黒印地の二種類に分けられていました。通常、寺領とは寺院が領有していた地をその地の藩主が領有を安堵したものか、藩主が寄進したものということなります。安堵とは承認するということです。安堵の際や寄進の際には藩主から土地の領有を保証した文言を記すとともに黒い印が捺された文書が与えられます。黒印が捺されていることから、その文書を黒印状といいます。そして、黒印状によって領有を安堵されるところから、そうした寺領を黒印地といいました。これに対して、藩主ではなく、将軍が領有を安堵した寺領や将軍が寄進した寺領というものもありました。古くからの大寺院や幕府との関係の深い寺の寺領はそうしたものでした。藩主が黒印を捺した文書で領有を安堵したのに対し、将軍が領有を安堵したり、寄進したりする際の文書には朱い印、すなわち朱印が捺されていました。そこからこの朱印を捺した文書を朱印状といい、朱印状によって領有を安堵された寺領を朱印地といいました。寺領の領有を安堵した黒印状と朱印状は、黒印状は藩主、朱印状は将軍の代替わりごとにあらたなものが発給されていきます。

 

 楠川沿いの興正寺の寺領はもともとあった地が寺領として安堵されたものですが、これを安堵したのは頼重であり、その地に替え、福岡村の地を寄進したのも頼重です。当然、福岡村の寺領は黒印地となるべきですが、頼重はこの地を朱印地にしようとしたのです。そのために頼重は幕府の関係者などにさまざまな働きかけをしました。そして、その結果、この寺領は本当に朱印地となったのです。将軍の朱印状が下され、福岡村の寺領が正式に朱印地になったのは延宝元年(一六七三)十二月二十日のことです。黒印地と朱印地では格式ということで大きな違いがあります。興正寺は格式の高い朱印地の寺領を有する寺になったのです。

 

 これを受け、良尊上人は将軍に礼を述べるため翌延宝二年(一六七四)四月十三日、京都を出立し、江戸へと向かいました。そして、四月二十八日、良尊上人は江戸城で幕府の第四代将軍、徳川家綱に拝謁します。

 

 廿八日興正寺門跡圓超金馬代、時服十献じ、御朱印給へしを謝し、家司も拝し奉る(『徳川実紀』)

 

 朱印状を拝領したことの礼を述べるため、良尊上人と良尊上人に仕えた家司が、金子、衣服を献上し、家綱に拝謁したとあります。この後、良尊上人は幕府の関係者に礼を述べるために、しばらく江戸に滞在し、五月十五日に江戸を立ち、京都に戻ります。

 

 朱印地の寺領を得、将軍に拝謁するということは大きな栄誉です。良尊上人の喜びも大きかったのだと思います。しかし、喜びは長くは続きませんでした。良尊上人の妻である良々姫、法名、妙超尼が病により伏せりがちになったのです。妙超尼はもともと体が弱かったようです。病に苦しんだあと、妙超尼は延宝三年(一六七五)二月二十五日、亡くなります。三十一歳でした。あまりに早い死です。いろいろな思いを抱きながら死を迎えたのだと思います。

 

 (熊野恒陽 記)

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