【二百七十一】佛光寺門下へ その一 頼重による専光寺の召し上げ

2024.07.24

  興正寺門下の讃岐国三木郡氷上村の常光寺は讃岐国に多くの末寺をかかえていた寺ですが、常光寺の末寺であった讃岐国香川郡東谷村の専光寺は、元禄四年(一六九一)、常光寺の下を離れ、京都の佛光寺の門下の寺となります。

 

 龍雲院様・・・元禄四未年、当寺之末寺香川郡東谷村専光寺、御用ニ付、指上候様被仰付候ニ付、奉畏指上申候(「常光寺文書」)

 

 常光寺の由緒書です。龍雲院とは高松藩の藩主であった松平頼重のことです。その松平頼重が、必要があるので末寺の専光寺を引き渡すように常光寺に命じてきたので、元禄四年、専光寺を引き渡したとあります。ここには専光寺は頼重に引き渡されたとあるだけで、佛光寺の門下になったとは書かれていません。しかし、専光寺が、元禄四年、佛光寺の門下になったことは間違いのないことです。この専光寺はいまの香川県高松市香川町東谷にある専光寺のことですが、専光寺は現に佛光寺派に属しています。そして、その専光寺自体が、専光手は、元禄四年、佛光寺派となったと伝えています。興正寺では、元禄三年(一六九〇)、寂永上人が住持の職に就いています。寂永上人が興正寺の住持となった一年後に、専光寺は興正寺の末寺から佛光寺の末寺になったのでした。

 

 常光寺の由緒書には専光寺が佛光寺の末寺となったとは書かれていませんが、それは常光寺がそこに重要性を感じていなかったためです。ここで強調されているのは、その後、専光寺がどうなったかということではなく、末寺の専光寺が松平頼重の命令によって召し上げられたということです。常光寺の由緒書であるため、常光寺に関わることだけが記されるのです。由緒書で述べられているのは頼重が専光寺を召し上げたということだけではありません。頼重は専光寺のかかえていた十三箇寺の末寺をも召し上げようとしたということも述べられています。

 

 専光寺末寺拾三ヶ寺御座候所、右末寺共指上候様、又々被仰付候共、此義者御請不仕段、申上候、依之、御目見三ヶ年不仕候所、御上様、右之段御尤ニ被思召候而、専光寺末寺拾三ヶ寺者、常光寺江被下候、右、専光寺指上候段、殿様、御満悦ニ被思召、其方義、追而、願も在之ハヾ、申出候様被仰付候

 

 専光寺には十三箇寺の末寺があったことから、常光寺は頼重から専光寺に加え、その十三箇寺の末寺をも引き渡すように命じられたが、それは受け入れることはできないと答え、そのため常光寺は三年もの間、頼重に拝謁することができなかったとあります。十三箇寺の引き渡しを拒んだことから、頼重の怒りを買い、拝謁することができなったのです。続けて、それでも三年後、頼重は常光寺のいっていることももっとだとして十三箇寺の引き渡しを求めた命令を撤回し、十三箇寺を常光寺の末寺とすることを認めたと記されています。そして、最後に、専光寺の末寺十三箇寺は専光寺に従うのではなく、常光寺の末寺となったものの、頼重は常光寺が専光寺を引き渡したということを、大変、喜び、常光寺に、今後、願いがあれば申し出るようにと伝えたということが述べられています。

 

 専光寺には十三箇寺の末寺があったとされますが、専光寺が多くの末寺を有していたことは事実です。高松藩では領内の寺院の簡単な由緒などを記した『御領分中寺々由来』という書が作成されています。これは専光寺が常光寺の下を離れる前に著わされたものです。その書には専光寺は常光寺の末寺であると記されるとともに、専光寺の末寺として九箇寺の寺の名が記されています。正式な寺とはいえない庵室のようなものを含めれば、十三箇寺の末寺があったとしてもおかしくはありません。

 

 常光寺の末寺の専光寺が頼重によって召し上げられ、佛光寺の末寺になったとすると、頼重は佛光寺を優遇していたことになりますが、頼重が佛光寺を優遇していたことも事実です。この時の佛光寺の住持は随如上人です。随如上人は興正寺の准秀上人の子であり、寂永上人にとっては叔父にあたっています。随如上人は佛光寺に入寺する際、頼重の養子となった上で、佛光寺に入りました。頼重は興正寺を通じて、佛光寺をも優遇するようになったのでした。

 

 頼重は佛光寺を優遇したことから、専光寺を佛光寺の末寺にしましたが、専光寺を佛光寺の末寺にしたことには、さらなる事情がありました。

 

 (熊野恒陽 記)

 

 

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