【二百七十二】佛光寺門下へ その二 専光寺に先立って佛光寺の門下に
2024.08.26
讃岐国の常光寺の由緒書には、元禄四年(一六九一)、松平頼重が常光寺の末寺である専光寺を召し上げたと書かれていました。一方、専光寺は、元禄四年、佛光寺の門下になったと伝えていました。これらを総合すると、元禄四年、松平頼重が常光寺の末寺の専光寺を召し上げ、佛光寺の門下の寺としたということになります。頼重が佛光寺を優遇したことから、専光寺を佛光寺の門下の寺としたのでした。
専光寺を佛光寺の末寺にしたことは、頼重が佛光寺を優遇していたことを顕著に示すものですが、頼重が藩主であった高松藩の領内には、専光寺より先に佛光寺の末寺となっていた寺がありました。高松城下の常福寺と山田郡庵治村の延長寺です。高松の常福寺は延宝四年(一六七六)に佛光寺の末寺になりました。延長寺の方は寺の第五世、法勤の代の時に佛光寺の末寺になったと伝えられますが、おそらくは常福寺とともに延宝四年に佛光寺の末寺になったものと思われます。
この二箇寺は佛光寺の末寺になるまでは高松にある真行寺の末寺でした。幕末に出版された讃岐国の名所や寺社を紹介する『讃岐国名勝図絵』には、常福寺が真行寺の末寺であったことを示す記述がみられます。常福寺の所在地は真行寺のすぐ近くです。延長寺の方も、高松藩の領内の寺院の簡単な由緒を記した『御領分中寺々由来』に延長寺が真行寺の末寺だとする記述があります。
讃州真行寺末寺 一向宗 山田郡 延長寺
常福寺、延長寺の本寺である真行寺は東本願寺の末寺です。この二箇寺は専光寺が佛光寺の門下になる十五年前に東本願寺の門下から佛光寺の門下になっていたのです。
常光寺の由緒書では専光寺は松平頼重に召し上げられたとされていますが、頼重はそれ以前の延宝元年(一六七三)に家督を水戸徳川家から迎えた養子の頼常に譲っています。常福寺、延長寺が佛光寺の門下になったのや、その後の専光寺が佛光寺の門下になったのは松平頼常が高松藩の藩主であった時代のことです。そうはいっても、これら三箇寺の転派そのものは頼重の存命中の出来事です。頼重はこののちの元禄八年(一六九五)に、七十四歳で亡くなります。
『讃岐国名勝図絵』の記述によると、常福寺はもと松林寺といったとされます。戦国時代、その松林寺が兵火にかかったことから、住持の正景は庵治浦に移ります。そして、正景がその地の郷士に招かれ、営んだ庵がのちに延長寺になったのだといいます。その後、松林寺は松平頼重から現在の地を与えられて、その地に再興されたのだとされています。これによると、延長寺と常福寺は互いに関係の深い寺だということになります。実際に延長寺の側も寺の開基を正景だと伝えています。これらに加え、『讃岐国名勝図絵』には常福寺が佛光寺の門下になった理由が書かれています。常福寺は上寺の真行寺との本末関係の争いから、真行寺の下を離れたとされています。
真行寺と本末の論あり。此を糺すことならすして、国(祖)君源英公の命によりて、新に今の本寺に属す。延宝四年・・・今の寺号に改め
源英公とは松平頼重のことです。真行寺と松林寺には本末の争いがあり、それで松林寺は真行寺の下を離れ、頼重の命令によって、今の佛光寺の門下になったのだとあります。延宝四年、佛光寺の門下となるとともに、寺号を常福寺と改めたともあります。この記述に従うなら、常福寺は本末争論から佛光寺の門下になりますが、それは頼重の意向によるものであったということになります。常福寺と関係の深い延長寺も、この時、一緒に佛光寺派に転派したのだと思います。
江戸時代には本末争論から転派をするということが多くみられましたが、西本願寺の末寺なら東本願寺の末寺に、東本願寺の末寺なら西本願寺の末寺に替わるというのが一般的でした。それが高松藩の領内では、それまでなら西本願寺の門下に替わっていた寺が、佛光寺の門下に替わるようになったのです。
頼重は、興正寺の准秀上人の子であり、寂永上人の叔父にあたる随如上人の佛光寺への入寺を契機として、佛光寺を優遇するようになります。随如上人の佛光寺への入寺は延宝二年(一六八九)のことです。頼重が佛光寺への支援をはじめてすぐに、高松藩の領内では佛光寺の末寺となる寺が出てきたのです。このことからするなら、頼重の佛光寺への支援は相当に強力なものであったとみることができます。
(熊野恒陽 記)