【二百七十三】佛光寺門下へ その三 専光寺を召し上げた理由

2024.09.25

 松平頼重は、元禄四年(一六九一)、常光寺から末寺の専光寺を召し上げ、専光寺を佛光寺の末寺にしたのだとされています。この頼重が専光寺を佛光寺の末寺にしたということは、『全讃史』の専光寺の項でも触れられることです。『全讃史』は文政十一年(一八八一)に刊行された讃岐地方の地誌です。

 

 それによると、専光寺は長く無住であったため、頼重が慶岸という僧に専光寺を与えるとともに、頼重が専光寺を佛光寺の末寺にしたのだとされます。慶岸は高松藩士の大沢惣右衛門の子で、八歳の時から頼重のもとに伺候していたのだといいます。頼重はこの大沢惣右衛門の子を小さいころから寵愛していたのだとされています。その後、慶岸は頼重の命によって僧となり、初めは頼重が建立した浄土宗の栄国寺の僧でしたが、のちに改めて真宗の僧になったのだといいます。真宗の僧としては、讃岐国鵜足郡宇多津の西光寺に入ったあと、専光寺を与えられたのだとされます。

 

 明応中、僧浄信脩之、浄信之後、久無主、方明暦時、氷上村前常光寺法照来住、乃為興門主末派、門主賜寺号、曰専光寺、法照後無主、元禄四年七月、英公下命賜僧慶岸、以為佛門主末派、行将加造脩、無何公薨、是以其事罷矣、慶岸者藩士大沢惣右衛門之子也、延宝二年、年甫八歳、為英公侍児、公殊寵之、後命薙髪、曰慶岸、初為栄国寺弟子、後改為真宗、住宇多津西光寺、又転移于此

 

 英公とあるのが頼重のことです。頼重は専光寺の建物を立派なものにしようとしていたが、頼重が亡くなったことから、それは叶わなかったともあります。

 

 専光寺の由緒については、明応年間(一四九二~一五〇一)、浄信が住持であったあとは長く無住で、明暦年間(一六五五~五八)に常光寺の前住持の法照が寺に入ったことから、興正寺の末寺となり、寺号も専光寺となったのだとされています。法照がいなくなったあとは、また、無住の寺となり、その寺を頼重が慶岸に与へ、佛光寺の末寺にしたというのです。

 

 この由緒によるなら、専光寺は極めて長い間、無住の寺であったことになりますが、常光寺の由緒書に従えば、専光寺は十三箇寺の末寺をかかえていた寺です。そうした寺が無住のままに成り立っていたとは思われません。それに興正寺の末寺になったのは明暦年間だとしますが、明暦年間では年代が遅すぎます。もっと早くに末寺になっていたことは間違いありません。この由緒にはこうした誤りがみられます。しかし、ここで述べられる専光寺に慶岸という僧が入ったということは事実だと認められます。慶岸は西光寺にいたとありますが、『全讃史』の西光寺の項にも寺に慶岸がいたと述べられています。頼重が慶岸に目を掛けていたのも事実としてよく、『全讃史』には慶岸が西光寺にいた時、西光寺の門が損壊したので、頼重が新たに門を建てたと書かれています。頼重は専光寺を常光寺から召し上げ、佛光寺の門下の寺とするとともに、専光寺に慶岸を入寺させたのです。頼重は佛光寺を支援し、さらには慶岸をも援助するため、専光寺を常光寺から召し上げ、佛光寺の末寺にしたということになります。

 

 常光寺の由緒書には、頼重が専光寺の十三箇寺の末寺を召し上げたため、常光寺と頼重の関係が悪化したと述べられていましたが、専光寺の召し上げについては、頼重から専光寺を引き渡すように命じられたので、謹んで差し上げたと書かれていました。

 

 指上候様被仰付候ニ付、奉畏指上申候

 

 畏まって差し上げたとあります。十三箇寺の末寺を召し上げられたことには抵抗しましたが、専光寺の召し上げについては、抵抗することもなく、畏まって差し上げているのです。これは専光寺の召し上げの際には、それに相当する代償が与えられたためではないかと思われます。江戸時代の中期には、下寺が上寺に金銭を支払って、上寺との本末関係を解消するということが行なわれるようになります。高松藩の前の藩主であった頼重が何の代償も与えず、常光寺の末寺を召し上げたとは思われません。そして、頼重が専光寺の十三箇寺の末寺を召し上げようとしたということも、もともとは頼重というより、専光寺の住持として、慶岸が十三箇寺を末寺とすることを望んだということなのだと思います。頼重は慶岸の望みの通りに、一旦は十三箇寺を専光寺の末寺にしようとしましたが、結局は十三箇寺を常光寺の末寺としました。親密な関係にあった慶岸を援助しつつも、公正な判断から、頼重は十三箇寺を常光寺の末寺にしたのです。

 

 (熊野恒陽 記)

 

 

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