【二百七十四】佛光寺門下へ その四 松平頼重の望みにより聴徳院を学問所に

2024.10.25

 高松藩の領内では、松平頼重が健在であった時、常福寺、延長寺、専光寺の三箇寺が佛光寺の門下の寺になっていましたが、高松藩の領内では、このほか、高松城下の聴徳院も頼重との関わりから佛光寺の門下の寺になっています。興正寺には『寛政五年讃岐国出役之記』と題された記録が所蔵されていますが、この記録には聴徳院の由緒書や、勝法寺の隠居を聴徳院の住持とすることを命じた佛光寺の随如上人の書状、それに聴徳院の什物の書き上げなどの写しが載せられています。それらのうち、聴徳院の由来を知る上で、もっとも重要なのは随如上人の書状の写しです。この写しから、聴徳院が佛光寺の末寺になる経緯が分かります。

 

 讃岐国香川郡高松聴徳庵事、老太守龍雲院頼重殿創営之地也、然所、依為無住、当流下寺致度由、太守少将頼常殿望之処、可任其意旨、早速相計、与給之訖、于爰、勝法寺隠居一古、彼寺修覆、就可令住持、則引渡之、令免許院室、先規之一字、改聴徳院、別而、最興寺、各々勝法寺令隠居候以後、此寺之可為住職者也

   元禄丁丑年二月中旬 随如在判

 

 この書状は元禄十年(一六九七)のものです。頼重は元禄八年(一六九五)に亡くなっています。この書状は頼重が亡くなったあとに書かれたものです。

 

 この書状によると、聴徳院はもとは聴徳庵といい、頼重が創建した寺だとあります。聴徳庵は無住の寺で、その無住の寺を頼重の養子である高松藩の藩主、頼常が佛光寺の末寺とするように望んだため、随如上人はすぐにそれを許可したということになります。そして、興正寺の高松御坊の留守居の勝法寺の隠居である一古が聴徳庵を修復し、住持となることを望んだことから、随如上人は一古に聴徳庵を引き渡すととともに、聴徳庵が佛光寺の院室、すなわち院家となることを許し、そこから聴徳庵の名を聴徳院と改めたともあります。また、聴徳院は別に最興寺とも号するのだとも述べられています。そして、随如上人は、以後、代々の勝法寺の隠居が聴徳院の住持となるようにと命じています。

 

 ここには聴徳庵は頼重によって創建された寺だと書いてあります。一方で、聴徳庵は一古によって修復されたともあることから、頼重が古い寺を取り立てて、それを聴徳庵にしたということになります。その聴徳庵を頼常が佛光寺の末寺にしますが、当然、これは頼重の意思を継いで、佛光寺の末寺にしているのです。佛光寺の末寺となるとともに、聴徳庵は佛光寺の院家になります。院家は寺格の一つで、門跡に次ぐ位です。佛光寺本山の門前には、いまも大善院、光薗院など、院号を号する六つの寺が建っています。古来、佛光寺派ではこれらを六院と称しており、院家の寺はこの六箇寺に限られていました。聴徳庵はこの六院と同等の院家の寺となり、寺号も聴徳院となったのです。頼重、頼常の望みに従って、随如上人は聴徳院に院家の寺格を許可したのです。頼重は聴徳院を領内の佛光寺派寺院の中心に据えようと考え、高松城下の古い寺を取り立てて、それを佛光寺の末寺にしようとしたのでした。

 

 この聴徳院は佛光寺の末寺ですが、住持となったのは興正寺の末寺の勝法寺の隠居の一古です。そして、随如上人は以後も代々の勝法寺の隠居が住持になるように命じています。佛光寺の住持が別の派の末寺の隠居に住持になることを命じているのですから、おかしなことのようにも思われますが、ここに高松藩の藩主家、興正寺、佛光寺の三者の関係が示されています。頼重は興正寺を庇護し、支援しましたが、随如上人が興正寺から佛光寺に入寺したことで、頼重はさらに佛光寺をも支援するようになりました。この三者の親密な関係から、興正寺の末寺の隠居が佛光寺の末寺の住持となるということが行なわれるようになったのです。隠居が住持となるとなっていますが、この隠居ということが肝要です。興正寺の末寺の住持の職を隠居し、興正寺の末寺を離れた上で、佛光寺の末寺の住持となっているのですから、ここには何の問題もないのです。

 

 こののちの聴徳院は、仏教諸宗派の学問所としての役割を果たしていくことになります。聴徳院ではひろく仏教の経典や典籍の講釈が行なわれ、それを聴講するため、諸宗派の僧が聴徳院に集まりました。講釈をしたのは各宗派の僧たちです。仏教に限らず、儒教や神道の典籍も講ぜられました。この学問所ということも、もともと頼重に聴徳庵を学問所としたいという希望があり、その希望の通りに頼常が聴徳院を学問所としたということなのだと思います。 

 

 (熊野恒陽 記)

 

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