【二百七十五】学林 その一 学寮の再興
2024.11.24
西本願寺の寂如上人は元禄五年(一六九二)七月十二日、西本願寺の白書院で、居並ぶ僧俗に向け自ら阿弥陀経の大旨を講じました。興正寺の寂永上人も、この寂如上人の講釈を聞いています。
七月十二日、宗主於白書院[孔雀間]、親講小経大旨、興門主已下至諸徒令聞之、緇素競集靡不歓喜(『大谷本願寺通紀』)
人びとは寂如上人の講釈を聞くため、争って白書院に詰めかけたとあります。この時、寂如上人は四十二歳、寂永上人は二十二歳でした。寂如上人の講釈を聞いたのは寂永上人が興正寺の住持となってから二年後のことでした。
この阿弥陀経の大旨の講釈に先だって、寂如上人は天和元年八月(一六八一)の母にあたる揚徳院の十七回忌の法要では、揚徳院の影像の前で女人成仏についての論議を行なっています。論議では顕証寺、本照寺、常楽寺の三箇寺が問者となり、寂如上人は答者となりました。論議とは教えについて問答することです。問答を通して、教えを明らかにしていきます。このほか、寂如上人は貞享三年(一六八六)には五月から七月にかけ、西本願寺の御影堂の北余間で、連枝や御堂衆に対し、『教行証文類』を講じています。こうして講釈を行なうだけではなく、寂如上人は学問のある僧に経典の注釈書などを講じさせ、自らはそれを聞くということも行なっていました。寂如上人が真宗の教えに精通するとともに学問を好んだということが窺われます。
寂如上人は良如上人の子ですが、良如上人も学問を好みました。自身が学問を好んだということから、良如上人は西本願寺の末寺僧侶の教育施設として学寮を建立します。良如上人は学問の興隆を願い、学寮の運営に力を注ぎました。しかし、この学寮は明暦元年(一六五五)七月に取り壊されます。学寮の取り壊しを主張したのは興正寺の准秀上人です。学寮の能化であった西吟と、西吟の教学理解を誤ったものと批判した月感の争いは、西本願寺の良如上人と興正寺の准秀上人の争いへと発展していきます。西本願寺への不満を強めた准秀上人は、学寮の建立は幕府に届けずになされたもので、新儀の行ないだとして学寮の取り壊しを主張しました。実際に学寮は幕府の許可を得て建立されたものではなく、准秀上人の主張は正当な主張です。良如上人と准秀上人の争いの調停にあたった井伊直孝も准秀上人の主張を認め、直孝は良如上人に学寮を取り壊すように求めました。そして、学寮は取り壊されたのです。
良如上人の学寮への思い入れは深く、学寮を取り壊したあとも、学寮の再興を願っていました。しかし、学寮は再興されることがないまま、良如上人は亡くなります。良如上人の跡を継いだ寂如上人は良如上人と同様に学問を好んだ人物です。父である良如上人は学寮を再興することができませんでした。学寮の再興は寂如上人にとって、果たさなければならない宿願ともいうべきものでした。
その学寮も元禄八年(一六九五)、再興されます。当然、正式な手続きを踏んだ上で再興されたものです。取り壊しから実に四十年を経て、再興されたのでした。再興したといっても、学寮との名称は再興に際し、改められます。新しい名称は学林です。学寮は学林と名を変え、再興されたのでした。
学林があったのは拡張以前の元来の西本願寺の境内地から北東にやや進んだ地です。東西に伸びる松原通りと南北に伸びる東中筋の交差点の北西部で、この地はいまも学林町と呼ばれています。学林の所在地であったことから学林町との町名がつけられました。学林の規模は講堂、庫裏、それに所化が住む衆寮が十八軒といったものでした。講堂は五間に六間の大きさです。これらは新築されたものでなく、別の用途に用いられていた建物を、移築、改修して整えられたものです。
こうした移築、改修は学林側が経費を負担するというかたちで執り行われたものでした。学林はまず西本願寺から金子を借り受け、その後、所化が学林に在籍する際に支払われる入寺銀を貯めて、それを西本願寺への返済にあてました。学林の建設は元禄八年の二月に始まり、四月に完工しています。
学林は以後、明治時代に至るまでこの地にありました。その間、学林は講堂など既存の建造物の改修や再建、それに新たな建造物の建設などをするとともに、敷地をひろげていきます。こののち学林は整備され、大きく発展していくことになるのです。
(熊野恒陽 記)