【二百七十五】学林 その二 仮の学林

2024.12.25

 西本願寺の学寮は明暦元年(一六五五)の七月に取り壊され、元禄八年(一六五五)四月に学林と名を変え再興されます。学寮は四十年もの間、存在しなかったことになりますが、この間、学寮は完全になくなっていたというわけではありません。この四十年の間にも西本願寺には学寮と同様の役割を果たす機関が存在しました。しかし、それはあくまで仮に設けられた非公式なものでした。

 

 学寮は幕府の許可を得ずに建立されたものだということで、取り壊されました。そうした理由で取り壊されたものをすぐに再興することはできません。再興したのなら、それは幕府に刃向かったということになります。西本願寺は幕府の動向を窺いながら、学寮の再興の機会を待っていたのです。そうして、四十年が経過したのでした。あらたに再興された学林は幕府の許可を得て設けられものですが、これに対し、学林が正式に再興されるまで存在したのは幕府の許可を得ずに設けられた仮の施設です。この仮の施設は学寮が取り壊された直後から営まれ出したものです。学寮が取り壊される時、学寮には所化が住んでいました。学寮が取り壊されれば、所化たちは住処を失います。そのため、西本願寺は所化の収容施設を設けました。それが次第に仮の学寮のようなものになっていくのです。

 

 其時、在寮ノ所化、俄ニ路頭ニ立候ものも御座候ニ付、不便ニ思召、幸ニ医者の挙屋敷御座候間、先当座此処成共罷在候様ニと、流浪の所化へ被下候屋敷ハ只今の学林也、これハかりやの心地ニテ学寮ト名乗事ハ無之筈也、然者、かりの講釈処、かりの所、所化のかり宿と申ものニ而候、天下御免の学林ニ而ハ無之候(『遂日記』)

 

 学寮が取り壊されると、学寮に住んでいた所化のなかには、路頭に迷う者も出てくるので、それを哀れに思って、幸いに医者の挙屋敷があったことから、ひとまずその挙屋敷を所化たちに下して、そこに住まわせたとあります。その挙屋敷があった地はのちの元禄八年に学林が建てられた地であったとも述べられています。さらに、この挙屋敷は仮屋というべきもので、正式な学寮ではなく、仮の講釈所、仮の所、所化のための仮の宿であって、幕府の公認を得た学林とは違うものだともあります。要は、幕府の認可を得た学林が建てられる前に営まれていた施設は、あくまで仮のものなのだといっているのです。

 

 ここには挙屋敷という名称が出てきます。この挙屋敷とは何なのかがこれだけでははっきりとしませんが、おそらくこれは上がり屋敷のことなのだと思われます。挙は手を挙げるというように、上げると同じ意味に使われます。ここでも上がりを挙と書いているのだと思います。この上がり屋敷とは幕府や藩、それに各地の領主などが没収した屋敷のことです。犯罪やその他の不都合なことがあった際、領主は配下の者から土地、屋敷を没収します。それを土地の場合は、上がり地、上げ地といい、屋敷の場合は、上がり屋敷といいました。医者の挙屋敷があった地はのちに学林が建つ地であり、西本願寺の門前の寺内町に含まれる地です。寺内町であるのですから、領主は西本願寺です。西本願寺は学寮が取り壊される前に、何らかの事情で医者の屋敷を没収していたのです。没収した屋敷なのですから、その屋敷は誰も住んでいない空き家です。そこが空き家であったため所化の収容施設としたということなのだと思います。挙屋敷を上がり屋敷のことだと考えると話の辻褄がすべて合ってきます。

 

 もとは医者が住んでいた屋敷はこうして所化の収容施設となりましたが、この収容施設ではやがて所化たちへの教学の講義も行なわれるようになっていきます。仮の宿が仮の講釈所を兼ねるようになるのです。講義が行なわれるようになったといっても、それは所化が医者の屋敷に移ってからすぐに行なわれたわけではありません。講義が行なわれるようになったのは、かなり時間が経ってからのことです。能化が所化に教学の講義を行なう学寮は、幕府の許可を得ずに建てられたものだとして取り壊されたのです。学寮が取り壊されてすぐに、所化への講義などできるはずはありません。講義が行なわれるようになったのは寛文八年(一六六八)からのことのようです(『御由緒年契』)。学寮の取り壊しから十三年後のことです。それでもまだこれは幕府の許可を得ずになされた仮の講釈です。この時には、当然、正式な能化もおらず、能化の代役、三人が順次に聖教の講釈を行なっていました。

 

 (熊野恒陽 記)

 

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