【三十】「南朝伝説 その二」 ~南朝武将の開基伝承~

2019.08.26

 寺院の伝える寺伝や縁起では、往々にして寺の創建を高貴な人物や高僧と結びつけて説いています。聖徳太子や弘法大師が庵を結んだといった類いの話で、そうした伝承は、それこそ枚挙にいとまがないほどに伝えられています。真宗の寺院でも、親鸞聖人をはじめ、了源上人や蓮如上人などそれぞれ各派の歴代と結びつけた寺伝が多くみられますが、それとともに真宗では、著名な武将が寺を開いたとか、武将の子孫が僧となり寺に入ったといった伝承も数多く伝えられています。

 

 そのうちもっとも多く名が挙げられるのが『平家物語』に登場する佐々木盛綱(ささきもりつな)、佐々木高綱(たかつな)兄弟で、佐々木兄弟どちらかの子孫と称している真宗寺院は全国に百個寺以上もあります。これには派の違いによる偏りというものがなく、佐々木姓を名乗る寺院は、東西の本願寺派にもあれば、高田派、佛光寺派、そして、興正派にもあって、一様に似通った伝承を伝えています。

 

 同じ伝承を伝える寺が各派にあるということは、その伝承が派の別が確立する以前から存在したということであり、佐々木盛綱、高綱兄弟の伝承が各派にみられるのも、もともと佐々木兄弟を始祖と仰ぐ門徒集団があって、それが各派の別が定まっていく過程で、分裂しながらそれぞれの派に吸収されていったためと思われます。もとより佐々木兄弟を始祖とするといっても、現実にその集団が佐々木兄弟の子孫かどうかということは別の問題で、始祖と仰いでいるからといって、必ずしも血統上のつながりがあるということにはなりません。著名な人物を共通の始祖として仰ぐことは、武士団や職人集団など、中世社会のいろいろな集団にみられるもので、集団の結合原理としては一般的なものといえます。共通の始祖を仰ぐことによって擬制的な同族関係を結んでいるわけであり、そうすることで集団の結びつきを強めました。佐々木兄弟を始祖とするというのも擬制的な同族関係を結ぶためであって、実際に子孫かどうかは別の問題ということになります。

 

 佐々木兄弟を始祖と仰ぐ集団の例は、門徒集団が擬制的な同族関係を結んでいたことを示すもっとも顕著な例といえますが、これに似た擬制的な関係は興正寺に属する末寺のなかでも結ばれていました。興正寺の末寺のうちに結ばれていた同族関係には大きな特徴があって、始祖として仰がれる人物には、多くの場合、南北朝の争いで南朝方に与した武将が選ばれています。南朝方で一番有名な武将となれば、何といっても楠正成(くすのきまさしげ)ということになりますが、かつて興正寺に属した末寺の寺伝を通覧すると、楠正成の子孫が寺を開いたと伝えている寺院が相当数あり、地域的にも正成の活躍した摂津、河内、和泉をはじめ、少し離れて丹波や但馬にあったりと広範囲に分布しています。このほか楠氏の一族と伝えられる安満了願(あまりょうがん)の子孫と称する寺院も多くみられますし、南朝方の新田義貞(にったよしさだ)の弟、脇屋義助(わきやよしすけ)の子孫が寺に入ったとか、楠氏とともに戦った和泉の和田氏の子孫と伝えている寺院もあります。いずれの武将も『太平記』に活躍が描かれた武将で、興正寺の末寺の寺伝には『太平記』が描く南朝方の人物がほぼ出揃っているような感すらあります。

 

 これらの寺伝の一つひとつは、いかにも寺伝らしい、とりとめのないものですが、しかし、南朝方の武将にまつわる伝えがこれだけ揃うのも不思議な話で、偶然というより、意識的にそうしていったとしか考えられません。興正寺の末寺は、楠氏、安満氏といった個々の同族関係を結ぶとともに、より大きくは南朝方という括りで結びついていたということになります。

 

 佛光寺本山で後醍醐天皇にまつわる伝説が語られるのは、怨みを含んで崩じた後醍醐天皇を追弔していたことのなごりと考えられますが、興正寺の末寺が意識的に南朝方の武将を始祖としていたことも、これと無関係とは思われません。南朝方の武将も全て怨みを含んで死んでいったのであり、そうした人物を始祖と仰ぐのは、それらの人びとに対する追弔の意識があってのこととみられます。合わせ考えるなら、かつてはひろく南朝方の死者たちの追弔が行なわれていたのであって、南朝方の武将の伝えが多いのも、その影響とみることができます。これと同様のことは南朝方の死者の鎮魂を行なっていた時宗においても認められます。江戸時代、関東には時宗に支配された鉦打聖(かねうちひじり)という下級僧侶の集団がいて、門つけを生業としていましたが、かれらもやはり南朝の末裔だと称していました。鎮魂を行なっていたことが変化し、子孫と称するようになったといわれます。

 

(熊野恒陽 記)

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