【三十二】「了源上人の示寂 その一」 ~了源上人の示寂についての佛光寺の伝承~
2019.08.26
了源上人は建武三年(1336)正月八日に亡くなったと伝えられます。了源上人の示寂については、興正寺ではこの建武三年という年を伝えるだけで、それ以外に特別な伝承は伝えられていません。概して興正寺では、佛光寺と分かれる以前の伝承を伝えることが少なく、伝えていたとしても、後年となって佛光寺に伝えられた伝承をそのまま取り入れたものが多いようにみうけられます。興正寺が佛光寺と分かれた以後、興正寺では、興正寺を再興した蓮教上人を開山と位置づけていたため、結果として、それ以前の伝承が重視されなくなり、そうなったものとみられます。
これに対し、佛光寺では、佛光寺は了源上人以来、連綿として続いているとの意識が強く、興正寺に比べれば、割合に多く古い時代のことを伝えています。了源上人の示寂についても、佛光寺には独自の伝承があり、佛光寺の了源上人伝である『中興了源上人略伝』には、興正寺では伝えられていない上人の示寂についての伝承が載せられています。もとよりそこで語られているのは、あくまで伝承であって、ただちにそれを史実とみることはできませんが、上人の示寂についてはほかに伝えがなく、示寂の様子をうかがうには、その伝承を参考とするしかありません。
それによると、上人は山田八郎という盗賊とその仲間の田中兵衛という者に殺害されたのだといいます。どうして山田八郎らが上人を殺害しなければならなかったのかについては、上人の化導により、念仏の教えが繁栄したため、邪徒がそれを妬み山田八郎に金銭を贈って、上人の殺害を依頼したと説明されています。
勢州鈴鹿郡ノ草庵ニテ、異例ユヘ数月淹留シ給ヒ、夫ヨリ伊賀国綾ノ郡ノ坊舎ニウツリ給ヒテ化導シ給フニ…邪徒念仏宗門ノ繁栄ヲ嫉ミ、亦聖道門ノ衰微ヲ怒リ、上人ヲ害セン事ヲ諮リテ、伊賀国山田ノ庄ニ山田八郎ト云盗賊アリ、是ニ金銭ヲ贈リテ、此事ヲ他頼ミケル
山田八郎という名など、いかにも作ったような名ですし、念仏の教えが栄えたから邪徒が殺意を抱くというのも、普通に考えれば、不思議な話ですが、ともかく伝承としては、そのように伝えられています。
文中、上人は伊勢の鈴鹿の草庵に逗留し、その後、伊賀の綾の坊舎に移ったと述べられていますが、殺害された場所も伊賀とされ、上人は伊賀から京へと向かう途中、伊賀の七里峠で襲われたとされています。
十二月上旬上京セントノ給ヒケルヲ、山田八郎伝ヘキヽテ、田中ノ兵衛ト相議シ、七里峠ニテ上人ヲ待ケルト云々、上人カヽル事トハ知リ給ハズ、十二月八日伊賀国ヲ立タチ、従者ト同ク歩マセ給ヒ、道スガラ一歩一称名シテ峠ニカヽリ給ヒケレバ、賊徒出合テ、アヘナクモ従者ヲ害ス、兵衛ハ上人ニ一刀ヲ刺シテ曰ク、必ズ吾ヲ怨ムコトナカレ、事ヲハカルハ八朗ナリト
七里峠は、伊賀から近江の信楽に抜ける峠で、別名、桜峠ともいいます。その峠で上人を待ち伏せしたとありますが、実際に上人を殺害したのは田中兵衛で、兵衛は上人を刺した際に、事をはかったのは山田八郎であり、自分を怨むことのないようにいったのだといっています。
この兵衛のことばに対し、上人は、自分が死ぬのは過去の業果によるものであるといったとされます。そして、この兵衛に罪がないことを流れる血で書き記したのだといいます。
上人ノタマハク、吾ハ過去ノ業果ニテカク山路ニ死ストイヘドモ、ヤガテ無為ノ浄土ニ往生ス、コレ悲ノ中ノ喜ビナリ、タヾアハレムベキハ、汝カク罪業ヲ犯スニヨリ、未来地獄ニ沈マンコト疑ナシ、速ニ廻心シテ後世ヲ願フベシトノタマヒテ、流ルヽ血ヲ指ニ点ジテ、袖ニ、吾死スルハ宿業、此モノヲ罪スルコトナカレ、廻心ノ気アリ、ヨク後世ヲ教ベシト書ヲハリ、西ニ向ヒ合掌シ、称名ノ息タヘ給フ
殺害後、田中兵衛は家へと戻り、しばらくの間、家に隠れていましたが、さすがに罪の重さに耐えかねて、事の次第を佛光寺へと知らせることになります。
正月八日当寺ニ来タリテ事ノ由ヲ告、件ノ御袖ヲ出シケレバ一山悲泣スルコト限ナシ
上人の示寂について、『中興了源上人略伝』はこのような伝承を伝えていますが、『中興了源上人略伝』はさらに続けて、上人を火葬したことや墳墓のことについても言及しています。
(熊野恒陽 記)