【三十三】「了源上人の示寂 その二」 ~了源上人の墓~
2019.08.26
『中興了源上人略伝』は、了源上人は伊賀の七里峠で、田中兵衛という者に殺害されたのだと伝えます。田中兵衛は上人を殺害後、犯した罪のあまりの大きさに事の次第を佛光寺に知らせたとされますが、『中興了源上人略伝』は、それに続け、事件後のこととして、上人を火葬し、墳墓を築いたともいっています。
イソギ事ノヨシヲ志賀、栗太、上野ノ衆ヘモ告シラシメ、七里峠ニイタリ、兵衛ガ告ルゴトク、桜木ノモトノ尊骸、ナホ従者ノ遺骸ヲモ、同国綾ノ郡佐奈具村ノ一宇ニ火葬シ奉リ、了源寺ト改号シテ、墳墓ヲタツ、凡コノ了源上人ノ大悲ノ行事ニヨリテ、他門嫉忌ノ輩モ日々ニ帰入シ、宗門謬解ノ族モ月々ニ廻心ス
志賀、栗太とあるのは近江の地名、上野は伊賀の地名です。その地域の門徒衆に佛光寺から急ぎ上人が殺害されたことを知らせ、それとともに殺害現場である七里峠に向ったと述べられます。そして、七里峠で上人と従者の遺体をおさめると、綾郡の佐那具村の一宇で火葬し、墳墓を立てたと記されています。佐那具村の一宇は了源寺と改号したともいっています。『中興了源上人略伝』の記述はこれで終わっています。
ここには了源寺との名が現れますが、了源寺は実在する寺で、現に佐那具にあって、佛光寺派に属しています。佐那具は現在の三重県現在の三重県上野市の地名で、いまの上野市佐那具町がその地にあたります。
そして、了源寺には『中興了源上人略伝』のいう通り、実際に了源上人の墳墓とされるものが立てられています。基壇の上に丸い石を二つ重ねたもので、重ねた石の脇には小ぶりな墓碑が置かれています。墓碑には「佛光寺第七代了源上人」と刻まれ、裏には「建武第二己亥臘月八日」と記されます。佛光寺派ではその墓を上人の墳墓とみたてています。
現在、了源寺にのこされている墓石は、天保六年(1835)に修造されたもので、墓石そのものは古いものではありません。天保五年、佛光寺では了源上人の五百回遠忌が営まれたことから、それを記念して、現在の墓石が立てられました。
『中興了源上人略伝』では、了源寺との寺号は上人の火葬後につけられたとされています。そうであるなら了源寺との寺号は南北朝時代からあったことになります。しかし、そうした時代に寺号があったとは、到底、考えられません。これは『中興了源上人略伝』が書かれた段階でこの寺が実際に了源寺と称していたため、その寺号を当初よりあったものとしたまでのことであって、こうした記述があるからといって了源寺の寺号が古くよりあったということにはなりません。『中興了源上人略伝』は了源上人の没後、唯了上人によって書かれたものとされますが、実際には江戸時代の後半期に著されたものです。このことは上人の墳墓についてもいえることで、『中興了源上人略伝』に了源寺に上人の墳墓を築いたと書かれてあっても、それは『中興了源上人略伝』が書かれた段階で了源寺に上人の墓があるとされていたということにしかなりません。
江戸時代、この墓がひろく知られていたことは確かで、了源寺の名もそれとともに知られるところとなっていましたが、そうなったことの背景には了源寺の側がこの墓を喧伝していたとの事実がありました。了源寺がこの墓の喧伝につとめていたことは、いろいろな徴証に照らし明らで、たとえば了源寺には了源上人の一生を描いた絵伝が伝えられていますが、それなどは上人と寺との関わりの深さを述べるために作られたものということができます。このほか江戸時代に『光山院殿法印大和尚位大僧正一位了源上人伝記』なる上人の伝記が流布しましたが、その本も内容は上人が了源寺にとどまって教化を行なったことと、没後、了源寺に墳墓が築かれたことを強調するものとなっています。墓の喧伝のために書かれものといえるでしょう。
こうした動向からするなら、上人の墓が存在するというそのこと自体、了源寺の側から主張され出したもののようにも思われてきます。了源寺の墓が、はたしていつからあるものであり、そして、それが本当に上人の墓なのかは、いまとなっては確かめようがありせんが、この墓はかつて一度だけ、そのなかが改められたことがあります。天保六年、現在の墓石が立てられる際に改められたもので、その時の記録がのこされています。それによれば、掘りかえすと、そこには遺骨などなく、ただ泥土があるのみだったといわれます(御霊廟銅板写)。
(熊野恒陽 記)