【三十四】「了源上人の示寂 その三」 ~七里峠と上人の骨~
2019.08.26
『中興了源上人略伝』は、了源上人の死について、上人は賊徒に襲われ没したのだと伝えています。上人が賊徒によって殺害されたとの伝承は、江戸時代の前半にはすでにはあった伝承で、『中興了源上人略伝』もそれにもとづいて書かれたものとみられます。
上人の示寂をめぐる所伝は、唯一、この殺害されたとの伝えがあるのみです。ほかの所伝がないことからすれば、殺害されたとする伝承は真実を伝えるものなのでしょう。もとより殺害されたといっても、その際に『中興了源上人略伝』が伝えるような経緯があったとは思われません。上人を殺害したのは田中兵衛という者であったとか、兵衛は山田八郎という者に命令されたといった話は後世の創作にすぎず、そのまま受けいれられるものではありません。信じられるのは七里峠で殺されたということだけだと思います。
七里峠はいまでこそ人通りも稀な山道となっていますが、かつては伊賀と近江を結ぶ重要な交通路で、人びとの往来も盛んでした。それだけに通行人を襲う賊徒も多かったはずで、上人もそうした賊徒に襲われ命を落としたということなのでしょう。上人が殺害された理由については、南北朝の争いに関係しているといわれたり、あるいは旧仏教の勢力に襲われたといわれたりしますが、どちらの説も、とても信じられるものではありません。背後関係などはなく、たまたま事件に巻き込まれたということなのだと思います。
上人の襲われた七里峠には、江戸時代、佛光寺によって石碑が立てられ、いまもその石碑がのこされています。石碑には「佛光寺第七代了源上人御遷化之地」と刻まれていますが、この碑が立てられる以前にも別の石碑があったらしく、七里峠には、相当、はやくから石碑が立てられていたものとみられます。かつては七里峠の石碑に参る人も多く、その際、参詣者は石碑に対して小石を供えるのが習いだったといわれます。
七里峠は、現在、もっぱら別名の桜峠の名で呼ばれていますが、これについて佛光寺では、上人の死と桜とを関連づけ、上人の遺体が桜のもとでみつかったから桜峠となったとか、没後に桜を植えたから桜峠となったのだといっています。佐那具町の了源寺にしても、この伝承から山号を寒桜山としています。しかし、これはどう考えても俗解で、むしろ先にあったのは桜峠の名の方だと思います。桜峠の場合、漢字の桜の字が用いられていますが、これは宛字にすぎず、音のさくらに意味があります。さくらのさは接頭語、くらは谷、崖を表す古語です。くら、つまりは谷を越えるのが峠ですから、さくら峠の名は全国いたるところにある名であって、たとえば奈良県にはおよそ二十もの、さくら峠があるといわれます。七里峠の別名桜峠にしろ、もともとあった名とみるべきで、それが上人の死に由来するなど、到底、考えられないことです。
佛光寺の伝えでもう一つ疑問がのこるのが、上人の忌日についての伝えで、上人が没したのは建武三年(1336)正月八日であるのにもかかわらず、佛光寺では上人は前年の十二月八日に没したとし、正月八日は佛光寺に上人の死の知らせが届いた日だとします。これは『中興了源上人略伝』にそう書いてあることから、それにならって十二月八日を本当の忌日としているものとみられます。しかし、『中興了源上人略伝』は江戸時代の伝承をまとめたものであって、その記述をそのまま信じることはできません。了源寺にある上人の墓碑にも「臘月八日」とあって、臘月(ろうげつ)、すなわち十二月八日を上人の忌日としていますが、十二月八日を忌日とするのは江戸時代の記録に限って出てくるもので、それ以前の記録はみな上人の忌日を正月八日としています。十二月八日とするのは江戸時代に発生した訛伝であるにすぎません。『中興了源上人略伝』にしても、上人の死を佛光寺に知らせた日としながらも、正月八日の日付はちゃんと挙げられています。十二月八日を忌日としつつも、一方で正月八日を忌日とする説を完全に否定できなかったことを示しています。
建武三年正月八日、上人が七里峠で亡くなった時、上人は五十二歳でした。没後、八年目には上人の木像が造られており、いまも佛光寺にその木像が伝えられています。木像は寄木造になっていて、胎内に、頭部だけの小さな上人像と古びた布切れ、そして、髪と骨とが納められていることが確認されています。骨は紙に包まれて胎内に納められており、疑いもなく上人の遺骨です。遺骨は白色ではなく、灰白色をしているのだといいます。
(熊野恒陽 記)