【三十八】「源讃上人」 ~御影堂はあったのか~
2019.08.26
了明尼公のあとをうけ佛光寺を引き継いだのは源讃上人です。上人は了源上人と了明尼公の第二子で、源鸞上人の弟にあたります。興正寺では上人を源讃上人といっていますが、佛光寺では唯了上人といっています。上人が佛光寺を継いだのは文和三年(1354)のこととされていますが、そうであるなら、それは上人の三十三歳のことになります。
佛光寺の存在は、了明尼公の代のころから対外的にも大きく知られるようになり、真宗以外の記録にもその名が現れるようになってきますが、上人の代に成立したものとしては、『法水分流記』という本に佛光寺のことが触れられています。『法水分流記』は法然上人の門下の諸系統を系図としてまとめたもので、法然門下の系図としてはもっとも古いものといわれます。作者は西山深草流の静見という人で、永和四年(1378)の成立です。この『法水分流記』は法然上人の門下を、一念義、多念義などと分けるとともに、白川門徒、嵯峨門徒などと、後世の系図にはみられない、地名を付した流派の分類も行なっています。親鸞聖人の流派については大谷門徒と名づけられており、一向宗と号すると記されています。大谷門徒としては三つの系統があげられていて、本願寺、錦織寺、そして、佛光寺の法脈が示されています。
源讃上人の事績も、了明尼公の場合と同様に、伝承として伝えられるだけですが、上人については、きわめて特異な伝承が伝えられています。それは上人が御影堂を建てたというものです。御影堂は延文五年(1360)に建てられたのだといいます。
開山聖人於山科建立已来、本尊与開山聖人木像一堂安置、於是延文年中、別新建立開山御影堂、同五年成就、三月落慶法事有之
これは『佛光寺法脈相承略系譜』という記録にみられるもので、本尊と親鸞聖人の御影を一堂に安置してきたが、別に御影堂を建て、延文五年に完成した、といっています。このことが事実であれば、真宗で阿弥陀堂と御影堂の両堂を最初に構えたのは佛光寺であり、両堂を並べるという形式も佛光寺がはじめたものということになります。本願寺が両堂を構えたのは蓮如上人の父である存如上人の時代といわれています。存如上人は源讃上人より、数十年ものちの人です。
問題はこれが事実なのかどうかということですが、これを事実と認めるのはかなり難しいことのように思います。上人が御影堂を建てたということは、唯一、『佛光寺法脈相承略系譜』だけが伝えるものですが、この本が著されたのは、御影堂が完成したという年より四百年もたった寛政四年(1792)のことです。その間の記録に、源讃上人の代に御影堂があったことを示す記述は、一切、ありません。佛光寺本山には親鸞聖人の古い御影が蔵されることから、御影がある以上、御影堂もあったのではないか、との意見も出されていますが、御影があるからといって、それだけでは御影堂があったことの証しにはなりません。
阿弥陀堂と御影堂の両堂が並ぶという形式は、現在、真宗各本山がひとしくその形式を用いているため、あたかもそれが真宗にとって本来的な形式であるかのような錯覚をいだきますが、この形式は歴史的な変遷をへて定まっていったものであり、真宗の教えのなかに本然としてそなわっているというようなものではありません。この形式を最初に採用したのはやはり本願寺で、本願寺にはそうすることの必要性がありました。
本願寺は親鸞聖人の廟堂としてはじまります。安置されているのは聖人の御影であり、したがってその建物も御影堂となります。本願寺ではこの御影堂の寺院化をはかりますが、寺院となる上では必然的に本尊の問題が生じます。本願寺では御影堂に阿弥陀如来像を安置し、御影をかたわらに置いたりもしましたが、これに対しては関東の門弟から反発が起きました(「専修寺文書」)。本願寺はあくまで廟堂でなければならない、というのが門弟たちの主張だといえます。廟堂か、寺か、この双方に同時にかなうのが、両堂の形式でした。
佛光寺は当初から阿弥陀如来像を安置する寺なのであり、あえて御影堂を建立する必要などなかったのではないかと思います。両堂があるから格が上だとかいうのは後世にできた常識にすぎず、両堂の有無がはじめから寺の格式を決めるものであったとは思えません。本願寺にしろ、必要性があって両堂を構えただけのことです。源讃上人の時代には、御影堂などなかったとみるべきでしょう。
(熊野恒陽 記)