【三十九】「門弟たち その一」 ~当寺ハ御住持ト寺僧ト相持ナル~
2019.08.26
佛光寺について述べたもののなかには、佛光寺には知識帰命の傾向があり、佛光寺の坊主たちは人間の格を越え、仏と同格に扱われていたとの意見を述べたものもみられます。佛光寺の教えがいかに誤っていたのかを説くための意見なのでしょうが、意見であるにしろ、あまりに勝手な意見です。佛光寺については、中世の後期から史料も多くなり、はっきりとその様子が判るようになってきますが、そこでは、当然、坊主は人間として扱われています。坊主が仏と同格であるのなら、いつの時代、坊主は人間に戻るのか、坊主が仏であったというのであれば、まずはそれが示されなければなりません。ところが、こうした意見を述べる場合には、坊主が仏と同格であったというだけで、肝心の人間に戻る時期については、一切、触れられません。
見方をかえれば、それも当然のことで、戻るも何も、坊主は最初から人間なのであり、触れようにも触れられないというのが実情なのだと思います。こうした意見はきわめて安易な意見というべきで、仏と人間を同格などと想定すること自体、仏教の基本知識すら欠いた発想だといわなくてはなりません。
佛光寺の坊主たちは了源上人の時代から存在しますが、もとよりそれは人間として存在しています。これは佛光寺の教化のあり方からいっても当然のことで、佛光寺は在家主義に徹し、庶民を対象とする教化をすすめましたから、いきおい坊主たちもより人間的な振る舞いをしなければならなかったものと思います。仏どころか、逆に人間的であったというべきしょう。
佛光寺の坊主の数は時代とともに増加していきますが、これら坊主たちと佛光寺との関係には、佛光寺ならではの大きな特色がみられます。それは本寺である佛光寺に対し、坊主の自立性が高いということで、佛光寺ならではの特色といえます。換言すれば、佛光寺住持の位置は相対的に低いということになりますが、それは確かなことで、本願寺住持と末寺の坊主の関係を主従の関係とするなら、佛光寺住持と坊主の関係は協力関係とでもいうべき関係にあります。
これは近世になると、より鮮明になってくることで、江戸時代、佛光寺は住持の意のままにはならない、いうなれば共同で運営される寺となっていました。住持が力を一身に集めていた本願寺などとは、寺のしくみが大きく違っています。江戸時代、佛光寺で力をもったのは六坊と総称される六つの坊で、佛光寺では、何ごとであれ、この六坊の住持と佛光寺住持の合意の上で決定される取り決めとなっていました。この六坊はいまも佛光寺本山の門前に並んでおり、現在はそれぞれが院号を称することから六院といわれています。
江戸時代の佛光寺の共同運営は徹底しており、たとえば地震で壊滅的な被害を受けた際にも、再建にあたっては、一つの建物は佛光寺住持が勧進を行なって再建をし、別の建物は六坊が勧進を行なって再建をすすめるというふうに、受けもちを分けて工事を行なっています。何から何までもが分割されているわけで、こうした共同運営を佛光寺では相持(あいもち)といっていました。
当寺ハ御住持ト寺僧ト相持ナルニ依テ御住持之 御心ノ侭ニモナラス、亦寺僧心之侭ニモナラス
これは『佛光寺先規作法之記録』と題する記録にみられるもので、何であれ住持の意のままにならないし、寺僧である六坊の意のままにもならない、といっています。要は、共同で運営されるということです。
六坊がこれほどまで力をもちえたことについては、この六坊は興正寺と佛光寺が分かれた時、佛光寺にとどまった寺で、その際に佛光寺のため尽力したから大きな権限をもつようになったといわれます。ならばこうした体制が採られたのは興正寺の分立後のこととなりますが、この体制はすでにそれ以前から採られていたことが確認できます。興正寺分立以後というよりも、佛光寺の本来的な体制だったとみるべきでしょう。
それを象徴的に示すのが光明本尊の絵で、光明本尊には了源上人と了明尼公以外、基本的にそれにつづく佛光寺の歴代の姿が描かれることはありません。了源上人以降、佛光寺の世代がかなりすすんだ時期にできたものでもそこに佛光寺住持は描かれません。描かれるのは了源上人から光明本尊の製作者にいたる法脈の師たちで、製作者にとっては佛光寺の住持の世代よりも、法脈の師の方が重視されていたことを示しています。佛光寺の世代が何に増しても優先されたのではないのであり、こうした意識が共同運営のかたちを招いたといえるでしょう。
(熊野恒陽 記)