【四十八】「光教上人 その五」 ~『正信念仏偈聞書』~
2019.08.26
佛光寺は、応仁二年(1468)八月二十六日に焼失したと伝えられます。応仁元年以来、京都では応仁の乱といわれる戦乱が続いており、その戦火にかかり焼失したものです。佛光寺の隆盛を象徴していた堂舎も、ここに失われることになります。
応仁の乱は、細川勝元(ほそかわかつもと)と山名持豊(やまなもちとよ)という武将の間に戦われた争いで、天下を二分するまでに拡大していった戦乱です。この時代、すでに室町幕府の力は弱まっており、かわって力を強めていたのがこの細川勝元と山名持豊の二人の武将でした。勝元と持豊は互いに覇をきそい、対立を深めていましたが、その対立が武力抗争へと発展したのです。この戦いは足利将軍家をはじめ、幕府の重臣、各地の守護大名をも巻きこんで複雑に推移していき、十一年もの間、続くことになります。戦いは京都を主戦場として続き、この乱によって、京都では多くの寺院や神社が焼けました。
応仁の乱による焼失後、佛光寺の堂舎はそのまま放置され、しばらくの間、再建されることはありませんでした。応仁の乱の戦いが続いていたため、再建が困難だったということもありますが、再建が遅れたのには、もう一つ大きな理由がありました。蓮教上人が佛光寺を出て、興正寺を分立したのです。
佛光寺の住持の職は、堂舎の焼失の二年後に光教上人から経豪上人、すなわち、のちの蓮教上人に譲られます。経豪上人は、その後、十年ほどを佛光寺住持として過ごしますが、その間、佛光寺の堂舎が再建されることはありませんでした。再建が始まるのは、蓮教上人が佛光寺を去って、その混乱も納まってからのことです。光教上人は興正寺の分立以後にも健在で、蓮教上人が去ったことによる混乱を鎮めたのは光教上人ですが、佛光寺の再建をとりしきったのもこの光教上人です。古くから佛光寺では光教上人を中興開山といっていましたが、それも理由あってのことです。
その後の佛光寺にとって、光教上人ののこした事績には、大きなものがあったといえますが、上人の事績には、さらにみるべきものがあります。それは上人が正信偈の講説を続けていたことで、その講録が『正信念仏偈聞書』と題される本となってのこされています。正信偈は、佛光寺では了源上人の時代から用いられていたものですが、この時代には、本願寺でも正信偈が用いられるようになります。上人にしてみれば、正信偈を用いてきたのは佛光寺だとの思いがあったはずで、そうした思いから上人は正信偈の講説を続けていたものとみられます。
『正信念仏偈聞書』には正信偈全文にわたる上人の解釈が示されていますが、それに先立って、この書ではまず正信偈を読誦することがすすめられています。
コノ偈ヲハ、鸞上人自行礼ノ讃文ト心得ヘキモノナリ。自行礼トイフハ、鸞上人コノ偈ヲ作テ、報謝ニ礼シタマフトイフ意ナリ…聖人ノ余流ヲ汲ムヤカラ、一味ノ安心トシテ、此讃文ヲ朝夕ノツトメトスルモノ也
正信偈は親鸞聖人が自らの報謝の礼拝のために作った讃文であり、聖人の流れを汲む者は正信偈を朝夕の勤めとすべきだといっています。こうして正信偈の読誦がすすめられるのは、実際に佛光寺では正信偈が読誦されていたからで、正信偈の読誦を続けてきた佛光寺の伝統を踏まえ、上人もまずは正信偈の読誦について述べたものとみられます。
正信偈本文の解釈の特徴としては、上人には行としての称名を重視する傾向がみられ、それが解釈上の大きな特徴となっています。
今正信ト云ハ、雑行ヲステヽ正行ニ帰シ、助業ヲ傍ニシテ、本願称名ノ行ニ信心ヲ立シ、疑ヲノソキ、オモンハカリヲヤメ、願力ニ乗シテ往生ヲ得ト信スルカ、正信念仏偈ノ意ナリ
本願称名の行に信心を立し、とは信は称名の行を通して得られるということです。行としての称名が重んじられているわけで、称名を報恩の行とする捉え方とは違っています。信心正因、称名報恩といわれ、一般には称名は報恩の行とされますが、これは本願寺流の解釈です。上人の採るところではありません。上人は称名を重視し、一貫して称名の重要性を強調しますが、だからといって信心が軽視されているわけではありません。信と行が具足しなければならないとするのが上人の立場です。古い時代の真宗では称名を重んじる方がむしろ一般的で、上人の解釈もそれに準じたものということができます。
(熊野恒陽 記)