【五十一】「経豪上人」 ~経豪上人、佛光寺を継ぐ~
2019.08.27
佛光寺は経豪上人の代に、興正寺と佛光寺の二つの寺に分かれます。経豪上人が佛光寺を出て、興正寺を建立したのです。経豪上人は佛光寺の住持の職に就いたまま、佛光寺を出て、興正寺を興しました。
経豪上人は佛光寺を去ったあと、あらたに蓮教の名を名乗ります。現在の興正寺では、この経豪上人、すなわちのちの蓮教上人を歴代の第十四世としています。一方の佛光寺では、経豪上人は歴代には加えられていません。経豪上人が去ったあとの佛光寺は、経豪上人の弟である経誉(きょうよ)上人が住持の職を継ぎます。佛光寺ではこの経誉上人を第十四世としています。興正寺と佛光寺の歴代は途中までは一致していますが、一致するのは第十三世の光教上人までで、第十四世からはそれぞれ別の歴代になります。
経豪上人による興正寺の建立は、興正寺の側からみれば、当初の興正寺の寺号を復活させたものであり、まさに興正寺を再興させたものと捉えることができます。しかし、これを佛光寺の側からみれば、経豪上人は佛光寺を捨て、別の寺を建立したということになります。当然のことながら、経豪上人に対する佛光寺の評価は低く、佛光寺では経豪上人は佛光寺に被害と混乱をもたらした人としてのみ捉えられています。佛光寺の経豪上人に対する反発は上人の生前から顕著なものがあり、経豪上人の在世中には、佛光寺は上人への対抗から興正寺との縁を完全に絶っていました。佛光寺の興正寺への遺恨はその後ものこり、佛光寺と興正寺の不穏な関係は中世を通じて続くことになります。佛光寺が興正寺との交流を復活させるのは江戸時代になってからのことです。
経豪上人が佛光寺に与えた影響にはまさに多大なものがあったといえますが、その経豪上人が佛光寺の住持の職に就くのは文明二年(1470)三月十日のことだと伝えられています。上人は宝徳三年(1451)の生まれで、佛光寺を継いだのは上人の二十歳の時にあたります。経豪上人が継ぐ前の佛光寺の住持は光教上人ですが、この光教上人と経豪上人は親子の関係にはありません。光教上人と経豪上人は叔父と甥の関係です。光教上人は性善上人から佛光寺を引き継いでいますが、この性善上人と光教上人は兄弟で、光教上人は兄から佛光寺を引き継いでいます。経豪上人はこの性善上人の長子にあたります。経豪上人が去ったあとの佛光寺を継いだ経誉上人も性善上人の子で、経誉上人は性善上人の第二子にあたっています。
経豪上人が佛光寺を継いだのは文明二年のことと伝えられますが、文明二年当時の佛光寺のおかれた状況は決して平穏なものではありませんでした。佛光寺は応仁二年(1468)、応仁の乱によって全焼しており、文明二年には堂舎はいまだ焼失したままでした。上人が佛光寺を継いだといっても、上人が継いだのは焼失したのちの佛光寺であり、堂舎を失った佛光寺でした。
上人の継いだのが再建前の佛光寺であることからすれば、周囲が上人に求めたのは寺の再興ということになりますが、これに対しては、上人もまた寺の再興を念願としていたものと思います。
住持となったのちの上人の事績としては、上人は文明五年(1473)に律師に補任されたことが知られています。このことについては甘露寺親長という貴族の日記に記録が残されており、親長の日記である『親長卿記』文明五年六月十八日条に「妙法院僧正申経豪律師事…奏聞」とみえ、六月二十日条にはこれを受けた「一昨日両条今日勅許、経豪事、以十六日日附遣口宣案了」との記事がみえています。妙法院の僧正から、経豪上人を律師に補任するように朝廷に奏聞してほしいとの要請があり、奏聞した、これには勅許が下ったので十六日付の口宣案(くぜんあん)を遣わした、と書かれています。
妙法院の僧正が経豪上人の律師補任を要請しているのは妙法院が佛光寺の本寺であるからで、ここにいう妙法院の僧正とは第百五十九世の天台座主ともなった教覚僧正のことです。寛正六年(1465)、比叡山が本願寺を破却するという、いわゆる寛正の法難が起こりますが、その際の天台座主がこの教覚僧正です。佛光寺住持は妙法院門跡に仕える立場にあり、住持は門跡の意に従っていましたが、それに対してはこうした種々の保護を受けました。佛光寺住持が寺を去るということは妙法院門跡との縁を絶つということを意味しています。経豪上人は佛光寺を去ることで妙法院門跡との関係をも絶ったのです。
(熊野恒陽 記)