【五十二】「佛光寺と本願寺」 ~本願寺は本当に衰微していたのか~

2019.08.27

 本願寺は親鸞聖人の廟堂が寺となったものです。この本願寺について、一般に本願寺は蓮如上人が継ぐまでは衰微していた、ということがいわれます。本願寺に代わって大きく発展していたのが佛光寺で、佛光寺の勢力は本願寺をはるかにしのいでいた、ということもいわれます。

 

 本願寺と佛光寺の比較はひろく行われていることであり、蓮如上人以前の本願寺の様子が語られる際には、多くの場合、佛光寺と比べた本願寺の様子が語られます。佛光寺は参詣の人でにぎわい、本願寺は閑寂としていたというものです。ここから佛光寺は大きく発展しており、本願寺は衰微していた、ということがいわれます。

 

 しかし、佛光寺と本願寺を比べ、そこから単純に本願寺は衰微していたと主張するのは誤りであろうと思います。佛光寺と本願寺を比べるといっても、この二つの寺は、寺の成り立ちも違えば、寺としての性格も違っています。そうした寺を単純に比較することはできません。

 

 佛光寺は、当初、興正寺として建立されて以来、一貫して、庶民を対象に教化をすすめ、庶民の間に信仰をひろげてきた寺です。佛光寺は庶民が集う寺なのであり、佛光寺に参詣の人が多かったというのも、こうした寺の性格からいえば当然のことです。これに対し、本願寺は庶民が集うような寺ではありませんでした。

 

 よく本願寺の教えを庶民にひろめたのは蓮如上人だといわれます。だとすると蓮如上人以前の本願寺は庶民に教えをひろめていなかったということになります。こうした一面を示すものとして、蓮如上人以前の本願寺は威儀を重んじたということがいわれています。

 

善如上人、綽如上人両御代の事、前住上人仰られ候、両御代は威儀を本に御沙汰候(『実悟旧記』)

 

 威儀とは、いかめしく威厳のある様、のことです。本願寺は第四世善如上人、第五世綽如上人の時代にはそうした威厳が重んじられたのだと述べられています。この時代の本願寺が威儀を重んじたことには著しいものがあり、この時代の本願寺の御堂衆は妻子をもたない清僧がつとめることになっていたといいます(『本願寺作法之次第』)。清僧であることに意義を認めているのであれば、それはまさに出家仏教の立場です。在家主義に徹し、在家の立場から、庶民に教えをひろめた佛光寺とは大きく違っています。聖人の廟堂からはじまった本願寺は、あたかも出家仏教の寺院のような寺になっていたのです。

 

 その本願寺で行なわれていたのが、聖教の書写や伝授といった活動です。聖教の書写や伝授は、代々の本願寺住持が続けたもので、本願寺の特徴ともいうべき活動です。蓮如上人にしても、継職以前には多数の聖教を書写していたことが知られています。

 

 聖教はいまでこそ容易に入手することができますが、中世の社会にあっては容易に入手できるものではありませんでした。聖教を入手するには、書写するか、書写してもらうしか方法がなく、書写するといっても、その書写自体がむやみに許されるものではありませんでした。書写にはそれなりの条件が求められましたし、しかるべき礼銭も必要でした。

 

 聖教はまさしく免許されるものであったのですが、この聖教の免許を行なっていたのが本願寺です。本願寺は聖教を書写し、それを免許することで寺を支えていたのです。本願寺の聖教の伝授はかなり盛んに行なわれており、地方の寺院の子弟が本願寺に滞在し、伝授を受けるということも行われていました。

 

芸範為学文応永中本願寺居住、巧如上人被伝授、 是当寺秘書(新潟県浄興寺蔵『教行信証』識語)

 

 これは本願寺から伝授された『教行信証』に記された識語ですが、芸範という者が学問のため本願寺に居住し、本願寺第六世の巧如上人から『教行信証』を授けられたと記されています。ここには学問(文)との語がみえますが、端無くもこの学問の語に本願寺の性格が示されています。すなわち本願寺は聖教の伝授や、教学の指導といった学問を行なう寺だったのです。当然、対象となるのは一定の知識を持った坊主であり、一般の庶民が対象となることはありませんでした。

 

 こうした本願寺の活動からみても、本願寺が衰微していたとは思われません。本願寺には参詣の人もなく、閑寂としていたといっても、坊主を対象に学問の指導を行なっていた本願寺の活動からすれば、それはむしろ当然のことなのです。

 

(熊野恒陽 記)

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