【五十三】 「蓮如上人と本願寺」 ~本願寺を本寺とする教団~
2019.08.27
本願寺は蓮如上人の時代に寺の性格を大きく変えていきます。蓮如上人は一般の庶民に教えをひろめ、本願寺を庶民の集う寺としていきますが、それとともに蓮如上人は本願寺を一つの派の本寺としていきます。
現に本願寺が一派を形成していることから、あたかも本願寺は創設の当初から一派をなしていたように思われがちですが、本願寺が明確に一派の本寺となるのは蓮如上人以後のことです。それまでの本願寺を一派の本寺ということはできません。むしろそれまでの本願寺は一派をなそうとはしなかったというべきで、本願寺は派というものとは関わることのない独自の立場にある寺でした。
真宗は親鸞聖人の時代から、高田門徒、横曽根門徒、鹿島門徒など、いくつもの門徒団に分かれ、以後も門徒団に分かれたまま発展していきます。門徒団は大小さまざまで、そのうちの大きなものがやがて派を形成します。これらいくつにも分かれた門徒団の特徴は、それぞれの門徒団が独立的だということです。門徒団同士が互いに交流するということはあまりありませんでした。これは門徒団の組織が師と弟子の関係である血脈の関係で成り立っていたことに原因があります。血脈の関係では同じ血脈を伝える者同士の交流はあっても、違う血脈の者同士の交流はあまりないことです。
真宗はいくつもの独立的な集団に分かれていたことになりますが、そうしたなかにあって、本願寺だけはそのうちのどの集団にも属することはありませんでした。そして、本願寺だけはそれらのどの集団とも交流することができました。それぞれの門徒団が集団の内部で活動をしていたのに対し、本願寺だけは各門徒団を横断するかたちで活動することができたのです。
本願寺がこうした立場をたもちえた要因は、本願寺の成り立ちにあります。本願寺は親鸞聖人の廟堂としてはじまりますが、この廟堂を建てたのは関東に住む聖人の門弟たちです。廟堂の土地こそ、当初は聖人の娘である覚信尼の夫、小野宮禅念の所有地でしたが、堂の建立費用を出したのは関東の門弟たちであり、堂に安置された聖人の御影も高田門徒の顕智らが造ったものでした。廟堂は門弟たちの総意によって建てられたのであり、門弟たちは、門徒団の違いをこえ、共同でことにあたったのです。
廟堂はその後も門弟たちによって護持されていきます。廟堂の建立から三十数年を経て、唯善という者が廟堂を占拠するという事件が起こります。唯善は聖人の遺骨と御影を奪い、堂内を破壊して姿をくらましますが、この時に御影を造りなおしたのも高田の顕智です。壊された堂の方は浅香門徒という門徒団の法智という者が修復しました。その後、さらに二十数年を経た建武三年(1336)、今度は兵火によって、廟堂は焼失してしまいます。この時に再建にあたったのも高田門徒と和田門徒です。和田門徒は高田門徒から派生した門徒団で、三河にひろがった門徒団です。
まさに廟堂は、門弟たちの総意で建立されたものとして、すべての門徒団に支えられていたのです。そして、門弟の総意で建てられたがゆえに、廟堂はどの門徒団に属するものでもなかったのです。本願寺の独自の立場は、こうした廟堂のあり方に由来しています。
本願寺が派というものと関わりがなかったということは、高田門徒が廟堂、つまりは本願寺の復興につとめていることによく示されています。高田門徒の本寺は専修寺です。本願寺が一派をなしていたのなら、高田門徒が本願寺に協力することはありません。高田門徒にとっても本願寺は護持すべきものであったのであり、本願寺と専修寺の関係は、互いに本寺として競合するというような関係ではなかったのです。
本願寺を一派の本寺とするのは蓮如上人です。専修寺と本願寺の交流は、蓮如上人の継職当初まで続き、専修寺の住持が上洛した際に、住持は本願寺に滞在することもあったといいます。しかし、この本願寺と専修寺の関係もやがて破綻します。原因は蓮如上人が専修寺の末寺を取ったことにあります。
三河国ニ和田、野寺トテ両寺アリ、久シキ高田ノ末寺ナリ…(和田寺は)終ニ本願寺ニ帰入セリ、野寺ヲモ蓮如取レリ…真恵上人ト蓮如ト御義絶ナリ(『代々上人聞書』)
専修寺の末寺を取ったとは、本願寺が本寺としてその寺を末寺にしたということです。本願寺は末寺を抱えはじめたのであり、本願寺はまさに一派の本寺となったのです。
(熊野恒陽 記)