【五十四】 「蓮如上人の行実 その一」 ~無碍光宗~
2019.08.27
本願寺は蓮如上人が寺を継ぐことで大きな発展を遂げることになります。蓮如上人は本願寺の性格を変え、本願寺を庶民の集う寺としていきます。庶民の信仰を集めることにより、本願寺は飛躍的に発展します。あわせて蓮如上人は既存の真宗寺院や門徒団を本願寺の門下に組みこむことにもつとめています。蓮如上人の時代には、大小さまざまな門徒団が本願寺の門下に組みこまれていきます。佛光寺の住持であった経豪上人が本願寺に参入するのも蓮如上人の代のことです。蓮如上人は本願寺の中興上人といわれますが、本願寺はまさに蓮如上人の一代のうちに大きく変わります。本願寺の変化は急速にすすんだわけであり、それだけに蓮如上人の生涯も起伏に富んだものとなっています。
蓮如上人が本願寺を継いだのは長禄元年(1457)、四十三歳の時のことです。蓮如上人は二十六歳ころに結婚していますが、その妻、如了は継職の前々年に亡くなっています。蓮如上人には生涯、五人の妻があり、二十七人の子供がいます。最初の妻、如了は七人の子をのこして亡くなりました。
蓮如上人は本願寺を継ぐと、直ちに活発な活動をはじめます。まず行なったのが本尊の下付です。本尊とされたのは帰命尽十方無碍光如来の十字名号で、蓮如上人は矢継ぎばやに、この十字名号の本尊を下付していきます。後年、蓮如上人は紙に南無阿弥陀仏と書いた簡素な名号本尊を下付しだしますが、この十字名号はそうした簡素なものではなく、かなり手がこんだつくりになっています。用いられたのは紺地の絹布で、名号も金泥で書かれています。名号の下には彩色した蓮台が描かれ、名号の周囲には金色で四十八条の光明も描かれています。さらに上下には色紙型が配されており、そこに讃文が書かれています。
蓮如上人が十字名号を本尊としたのは本願寺の伝統に従ってのことです。本願寺では覚如上人以来、名号では十字名号を本尊としていました。蓮如上人が下した十字名号の場合には、紺地に金色で名号と光明が描かれ、視覚的にも鮮烈な印象を与えますが、これは蓮如上人がほどこした工夫です。当時、世間に流布していたのは佛光寺の光明本尊です。光明本尊との対抗から、金色に輝く光明を描いたものとみられます。
本尊に続けて蓮如上人が下しはじめるのが親鸞聖人の影像です。蓮如上人は聖人の影像に「大谷本願寺親鸞聖人御影」との裏書を書き、下付をはじめます。聖人の名に本願寺の号を冠するのも覚如上人以来の本願寺の伝統です。
蓮如上人が下しはじめた親鸞聖人の影像は、裏書にこそ親鸞聖人御影と記されていますが、描かれるのは親鸞聖人だけではなく、蓮如上人の姿も一緒に描かれています。絵からいえば連坐像というべきもので、親鸞聖人は上方に、蓮如上人は下方に描かれています。こうして蓮如上人が、聖人の影像に自分の姿をも加えているのは、親鸞聖人の教えを継承するのは自分だとの自負を表わしたものなのでしょう。蓮如上人は真宗の教えにそぐわない本尊などを風呂のたびごとに焼いたと伝えられます。本願寺とは別に発展していた門徒団で用いられた、絵像や連坐像を焼き捨てたということだとみられます。そうして焼き捨てられた連坐像に代わり、蓮如上人が下したのが自分の姿をも添えたこの親鸞聖人の影像でした。
蓮如上人の教化はすぐに成果を表わします。蓮如上人のもとには人びとが集いだし、人びとは集団となって活発な活動をはじめます。こうした活動に対して加えられたのが寛正の法難です。継職から八年後の寛正六年(1465)、比叡山の衆徒は本願寺を破却します。蓮如上人の活動が活発であったがために引き起こされた弾圧だということができます。
この寛正の弾圧に際して、比叡山側は本願寺を、無碍光という一宗を立て、悪行を行なっていると批判しています(「叡山牒状」)。無碍光宗とは蓮如上人が下した十字名号にちなんで名づけられたものですが、実際に本願寺では何かにつけ無碍光の語が口にされていたものと思います。この無碍光という語について、蓮如上人は「人法としてよくさふることなき」といっています(『正信偈大意』)。無碍光の光は、人、つまりは心をもつ有情や、法、つまりは心をもたない物質では、遮ることはできないということです。遮るものは何もない、無碍光という語には確かに誤解を招くひびきがあるようです。寛正の法難以後、蓮如上人は十字名号の本尊を下さなくなります。
(熊野恒陽 記)