【五十五】 「蓮如上人の行実 その二」 ~吉崎での教化~

2019.08.27

 寛正六年(1465)、京都東山大谷の本願寺は比叡山の衆徒によって破却されます。衆徒の襲撃に際して、蓮如上人は本願寺を逃れ、とりあえずは洛中に身を隠します。比叡山の本願寺への弾圧は、本願寺の堂舎を破却することで終わったのではなく、その後も執拗に続きます。そのため蓮如上人は、以後も各地を転々とすることになります。そのうち比較的に長く蓮如上人がとどまっていたのは近江です。近江は蓮如上人の教化が最初に及んだ地で、近江の金森(滋賀県守山市)や堅田(大津市)といった地にはすでに門徒団が形成されていました。金森では文正元年(1466)に報恩講も行なわれています。蓮如上人は本願寺の親鸞聖人の御影を伴って移動しており、報恩講は本願寺伝来の聖人の御影を安置していとなまれたものです。御影に対する人びとの崇敬の念はあつく、蓮如上人をはじめ人びとは生きているかのごとくに御影に接しました。比叡山の弾圧は、本願寺が比叡山に末寺銭を上納するということで、一応は収まります。しかし、比叡山との軋轢は何かと続き、結局、蓮如上人は近江を去ることになります。向かったのは越前の吉崎(福井県あわら市)です。御影の方は、近江の三井寺の側に設けられた堂舎にのこされることになりました。

 

 蓮如上人が吉崎に移るのは文明三年(1471)、五十七歳の時のことです。吉崎が選ばれたのは、この地が南都興福寺の大乗院門跡の荘園だったためだといわれています。大乗院の第二十六世経覚僧正は、蓮如上人と姻戚関係にあり、蓮如上人とは親しい交際を続けていました。加えてこの荘園の別当をつとめていたのは本覚寺という真宗の寺院でした。別当とは、年貢の取り立てなどを行なう現地の管理人のことです。

 

 吉崎に移って以後、蓮如上人の活動はより活発なものとなっていきます。蓮如上人は御文を書いたことで知られていますが、御文が本格的に書かれはじめるのは吉崎に移ってからのことです。御文はそれまでにも書かれていますが、それまでの期間に書かれた御文はわずかに数通です。それが吉崎に移ってからは急に数を増していき、つづけざまに御文が書かれるようになっていきます。蓮如上人が草書の六字名号を下しはじめるのも吉崎に移ってからのことです。蓮如上人は寛正の法難以後、紺地に金泥で書かれた十字名号の本尊を下付しなくなります。代わって下されたのが草書の六字名号です。蓮如上人が下した六字名号は夥しい数に及んでいます。

 

 さらには蓮如上人が勤行の形式をあらため、朝夕の勤行に正信偈と和讃を用いるようになるのも吉崎に移ってからのことだといわれます。吉崎に移って二年目の文明五年(1473)には、蓮如上人は三帖和讃と正信偈の開版をも行なっています。これらに加え、門徒の寄合いが行われるようになったのも蓮如上人の吉崎移転後のことといわれます。寄合いは門徒が互いに語り合う場で、のちにこれが講へと発展していきます。

 

 これら、御文、六字名号、正信偈と和讃、寄合い、といったものは、蓮如上人が用いたり、勧めたものとして、蓮如上人の教化を特徴づけるものといわれていますが、蓮如上人がこれらの特徴をそなえた教化をはじめるのは吉崎に移ってからのことになります。

 

 吉崎での蓮如上人の教化は人びとに受けいれられ、多くの人たちが吉崎に出入りするようになります。吉崎には町場ができ、何軒かの多屋も建てられました。多屋とは吉崎に詰めていた坊主の宿舎のことです。多屋は参詣の門徒たちの宿泊にも使われました。

 

 その後の吉崎の繁栄はすさまじく、吉崎はまさに門徒衆が群集する地となっていきます。北陸の武士たちも吉崎を警戒するようになりました。この門徒衆の勢力に目をつけたのが富樫政親(とがしまさちか)です。富樫家は加賀の守護の家柄ですが、家が二分しており、政親は加賀の支配をめぐって弟の幸千代(こうちよ)と争いを続けていました。文明六年(1474)、政親は門徒衆の協力をとりつけ、この幸千代を倒します。北陸における最初の一向一揆です。幸千代には高田門徒が味方しました。この時の一揆は蓮如上人も黙認しています。

 

 門徒衆と富樫政親は、一度はともに戦ったものの、次第に敵対するようになります。幸千代を倒した翌年の文明七年の三月、今度は門徒衆の主戦派と政親勢とが戦います。この時の戦いでは門徒衆が敗れました。敗れた門徒衆は加賀から越中へと逃れます。そうした状況のなか、その年の八月となって、蓮如上人は吉崎の地を離れます。

 

(熊野恒陽 記)

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