【五十七】 「本願寺参入の意思」 ~いつ本願寺に意思を伝えたのか~

2019.08.27

 経豪上人は文明十三年(1481)ころに本願寺に参入します。ちょうど蓮如上人が山科に本願寺を造営していた最中のことです。

 

 実際に本願寺に参入するのが文明十三年ころであったにしても、経豪上人が本願寺に参入する意思をもつようになるのは、当然、それ以前のことになります。上人がいつ本願寺へ参入する意思をもつようになったのかは明確に知ることはできませんが、これについて、しばしば経豪上人はすでに文明二年(1470)には本願寺に参入する意思をもっていた、ということがいわれます。経豪上人が佛光寺を継ぐのが文明二年です。ならば上人は本願寺に参入する意思をもちながら佛光寺の住持を続けていたということになります。

 

 この文明二年の段階で本願寺参入の意思をもっていたという説は、それなりの根拠にもとづいていわれているものです。経豪上人の本願寺参入については、永禄十一年(1568)に著された『反故裏書』という書に簡単な経緯が記されていますが、その本には経豪上人は父親を亡くしたのち百日に満たないうちに本願寺に参入の意思を伝えたと記されています。

 

佛光寺蓮教は父往生の砌より頻に帰参の望あり。かの門弟当流へ帰参の仁に立より順如上人へ申されしかば、則申入られ、蓮如上人めしいだし給ふ。百箇日のうちなり。親父は摂津平野にて卒逝ありき。やがて山科に参扣し、むかしのごとく坊舎をたて、はじめの名にかへされ興正寺と号す…すなはち常楽寺蓮覚の婿君となして親属のまじはり佗に異なり…かくのごときの御計みな順如上人の御智慮となん

 

 父親が摂津の平野で亡くなったあとその百箇日のうちに、蓮教、すなわち経豪上人は順如上人を介し蓮如上人に参入の意思を伝えた、といっています。順如上人というのは蓮如上人の長子にあたる人物です。この『反故裏書』は経豪上人の参入を何年のことと明記しているわけではありませんが、経豪上人の父性善上人は、佛光寺の所伝では文明二年に亡くなったとされています(『佛光寺法脈相承略系譜』)。興正寺でも性善上人は文明二年に亡くなったとします。『反故裏書』の記載と佛光寺の所伝を合わせ考えるなら、経豪上人が参入の意思を伝えたのは文明二年ということになります。

 

 経豪上人が文明二年に本願寺への参入の意思をもっていたとする説は、こうしていわれだしたもので、江戸時代からひろく語られてきたものです。しかし、この文明二年に意思を伝えたとする説は成り立ちがたい説のように思います。この説は『反故裏書』と佛光寺の所伝を組み合わせていわれだしたものですが、そもそもこの二つを単純に組み合わせることに問題があります。『反故裏書』は経豪上人の父親が亡くなったことに触れますが、それを文明二年のこととはいっていません。『反故裏書』は続けて、経豪上人が山科に参扣し昔のように興正寺を建てたといっていて、むしろ、父親が亡くなったのを文明十年にはじまる山科本願寺造営後のこととして捉えています。『反故裏書』の文中には「やがて」との語がみえますが、「やがて」とは「そのまま」とか「ただちに」との意味です。父親が亡くなったあと本願寺に参入の意思を申し入れ、そのまま山科に参扣した、との意になります。

 

 要するに『反故裏書』と佛光寺の所伝とでは性善上人が亡くなったとする年が違っているのです。問題は性善上人が亡くなったのは、文明二年か、それとも文明十年以後のことなのか、ということになりますが、上人の亡くなったのを文明二年とすることには疑問がのこります。性善上人がそれ以後にも存命であったことをうかがわせるような記録があるからです。

 

経実ハ乱以来毎月連歌会ニ来(『宣胤卿記』)

 

 これは中御門宣胤の日記の記事です。経実、つまりは性善上人が、乱以来、毎月の連歌会に来ていたと記されています。ここにいう乱とは、応仁元年(1467)から文明九年(1477)まで続いた応仁の乱のことです。応仁の乱以後も上人は存命であったということになります。応仁の乱が長期にわたって続いていることから、乱以来といういい方にはいささか曖昧さものこりますが、これからすれば、上人の亡くなったのは、『反故裏書』がいうように文明十年にはじまる山科本願寺の造営以後のことになるのだと思います。性善上人が文明二年に存命であるのなら、経豪上人が文明二年に本願寺に参入する意思を伝えたとする説は成り立たないことになります。

 

(熊野恒陽 記)

PAGETOP