【五十八】 「順如上人」 ~経豪上人の養父~

2019.08.27

 『反故裏書』には、経豪上人は順如上人を介し、蓮如上人に本願寺参入の意思を伝えたと記されています。

 

佛光寺蓮教は父往生の砌より頻に帰参の望あり。かの門弟当流へ帰参の仁に立より順如上人へ申されしかば、則申入られ、蓮如上人めしいだし給ふ…すなはち常楽寺蓮覚の婿君となして親属のまじはり佗に異なり…かくのごときの御計みな順如上人の御智慮となん

 

 順如上人は蓮如上人の長子です。『反故裏書』は続けて、経豪上人には常楽寺蓮覚の娘を配したが、それも順如上人が計らったものだと記しています。常楽寺は存覚上人の開いた寺で、本願寺とは深いつながりのある寺です。

 

 『反古裏書』にいう通り、経豪上人の本願寺参入には順如上人が大きな役割をはたします。ここにあるように経豪上人は常楽寺蓮覚の娘と結婚しますが、その際、順如上人はこの蓮覚の娘を、一旦、自分の養女として、その上でこの娘を経豪上人と結婚させています。形式としては、順如上人が経豪上人を婿として迎えたとのかたちになっています。この娘はのちに法名を如慶と名のります。

 

 順如上人は表だった行動こそないものの、本願寺のためにはかなり尽力した人物です。

 

順如上人…本願寺住持十年ばかり御持候歟、蓮如上人御存生の間也。大津顕証寺開山也…蓮如上人は仏法方計被仰候時、順如は住持分にて世上の儀万御扱候し事也…禁裏の御事、武家将軍家の事而已御扱候し事也(『実悟記』)

 

 仏法のことは蓮如上人が扱い、世上のことや、朝廷や幕府のことは順如上人が扱ったのだといっています。

 

 政治権力との関係調整や、渉外の活動が役割だったことになります。順如上人が幕府との交渉をしていたのは、蓮如上人の妻で順如上人の母である如了が伊勢氏の出身で、その縁によって幕府とのつながりがあったからです。伊勢氏は室町幕府の政所執事を世襲した家で、如了はその分家の出身でした。順如上人と幕府との関係は深く、順如上人は幕府の要人や将軍とも交流しています。応仁の乱で東軍、西軍と勢力が二分した時にも、順如上人は双方の陣営に出入りすることができたといいます(『天正三年記』)。

 

 世上のことを扱ったといっても、順如上人が仏法のことを扱わなかったわけではありません。蓮如上人が吉崎に滞在していた間、本願寺伝来の親鸞聖人の御影は近江の近松坊にのこされましたが、その期間、近松坊にあって御影を護持したのはこの順如上人です。蓮如上人は吉崎にいるわけで、近畿の本願寺門徒も順如上人が治めていたということになります。蓮如上人が吉崎にいる間にも近畿では本願寺の勢力が拡大していきますが、これも順如上人の力によるものとみなくてはなりません。蓮如上人の時代のことは、何もかもが蓮如上人の事績のようにいわれますが、順如上人も相当に大きな働きをしています。順如上人の住んでいた近松坊がのちに顕証寺になります。

 

 文明七年(1475)八月、蓮如上人は吉崎から畿内に戻りますが、この時、吉崎に蓮如上人を迎えにいったのも順如上人です。蓮如上人は順如上人の用意した舟に乗って若狭の小浜に向い、そこから陸路、丹波、摂津を経て河内の出口に落ち着きます。蓮如上人は加賀での富樫政親と門徒衆の争いを避けて畿内に戻りますが、戻るといっても何の準備もなしに戻ったとは考えられません。畿内に至る経路や落ち着く先は、あらかじめ決められていたはずです。当然ながら、それは迎えにいった順如上人が決めていたと考えられます。

 

 畿内の戻ったのちの蓮如上人は出口の坊舎に住み、以後二年以上をここで過ごしますが、蓮如上人は吉崎退去後わずか二週間ほどでこの出口坊に入っています。はじめから出口坊に住むことに決まっていたとしか思われません。出口坊はのちに光善寺となりますが、この坊舎は順如上人が相続し、順如上人の亡きあとも順如上人の遺族がこの坊に住んでいます。坊の建立の当初から順如上人の助力があったことをうかがわせます。

 

 畿内へと戻ったのち蓮如上人は再び畿内を舞台に盛んな教化活動を行いますが、蓮如上人の活動は順如上人が築いた土台の上になされたものということになります。あわせて順如上人は佛光寺門徒の本願寺への取りこみにもつとめていたようで、経豪上人もその関係から、順如上人を介して本願寺への参入の意思を伝えたものとみられます。

 

(熊野恒陽 記)

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