【五十九】 「日本血脈相承真影 その一」 ~佛光寺門徒から本願寺門徒へ~
2019.08.27
経豪上人は順如上人を介し、本願寺へ参入の意思を伝えたといわれますが、それを記した『反古裏書』は、その際、経豪上人は、経豪上人に先だって佛光寺の門下から本願寺の門下に転じていた者を仲立ちとして、順如上人に会い、順如上人に参入の意思を知らせたのだとのべています。
佛光寺蓮教は父往生の砌より頻に帰参の望あり。かの門弟当流へ帰参の仁に立より順如上人へ申されしかば、則申入られ、蓮如上人めしいだし給ふ
佛光寺の門弟から、当流、すなわち本願寺の一流へと参じた人を介して順如上人に申し入れたといっています。順如上人への取り次ぎをはたしたというこの門弟については、具体的な名を知ることはできませんが、順如上人は経豪上人の参入以前から佛光寺門徒の取りこみをはかっており、この門弟にしてみても順如上人を通じて本願寺に参入したのだと思われます。
佛光寺門徒の本願寺への取りこみは順如上人が積極的に推しすすめたものですが、佛光寺の門弟だった者が本願寺の門弟になるということは、蓮如上人の本願寺継職の当初からみられることです。継職後のはやい時期に蓮如上人を支えた門弟たちには、もとは佛光寺の門徒だったと考えられる者が何人もいます。もともと佛光寺は畿内やその周辺に門弟をかかえていたのであり、それと同一の地帯に本願寺が教えをひろめたのであれば、佛光寺の門弟から本願寺の門弟となる者が現われることは、いわば、自然な成り行きです。
継職当初の蓮如上人の門弟にもともと佛光寺の門弟だった者がいたといっても、それらの門弟はいろいろな事柄から佛光寺門徒だったと推測されるだけで、明確に佛光寺の門弟だったと証明できるわけではありません。そうしたなか佛光寺の門弟から蓮如上人の弟子となったことが明白に知られるのが、摂津の柴(くに)島(じま)(大阪市東淀川区)の地にいた法実という門弟です。
柴島は淀川の流域にあり、まさに淀川に面した地です。現在、柴島には本願寺派に属する万福寺という寺が建っています。法実はこの万福寺の歴代に数えられている人物です。法実が蓮如上人の弟子となったことは、この法実が所持していた連坐像に蓮如上人が裏書を加えていることから知られます。
大谷本願寺 釈蓮如(花押) 寛正四年癸未九月九日 日本血脈相承真影 願主 釈法実
蓮如上人の署名と裏書を認めた日付が書かれています。寛正四年(1463)は蓮如上人が本願寺を継いでから七年目の年にあたります。日本血脈相承真影とあるのは連坐像の題であり、形式として、その連坐像を蓮如上人が法実に下したとの形式が採られています。
連坐像の裏書は法実が蓮如上人の弟子となったことを示すものですが、法実が佛光寺の門弟であったこともまた、法実が所持していたこの連坐像から知られます。この連坐像に描かれているのはまさしく佛光寺の法脈に連なる師たちです。蓮如上人は、佛光寺の法脈を伝える連坐像に裏書を加えていたのです。
この連坐像には全てで二十名の像が描かれています。連坐像には描かれた人物の名を記した札(さつ)銘(めい)が付されており、誰が描かれているのかが判ります。札銘によれば、描かれているのは源空と親鸞の両聖人に、真仏、源海、了海、誓海、明光、了源の各上人、それに了源上人から法脈を相承した、空専、教真、賢真、西定、西真、□□、円道、法願、法秀、法円、法妙、法実といった先徳たちです。文字の消えた札銘もありますが、描かれているのは二十名です。像は二列に描かれており、向かって左上に源空上人、右上には親鸞聖人が描かれ、親鸞聖人の下には真仏上人、源空上人の下には源海上人が描かれています。源海上人に続く先徳は、真仏上人の下に了海上人、源海上人の下には誓海上人と、左右交互に下に向かって描かれています。
図の構成は法実にいたる法脈のながれを表わしているわけで、法実は明らかに佛光寺の法脈に連なっています。その法実が蓮如上人の弟子となったのです。この法実と同様に佛光寺の門弟から蓮如上人の門弟になった者は、当然、ほかにも大勢いたはずです。
連坐像が示すように法実は了源上人から教えを受けた空専に連なる門弟ですが、空専の系統の門徒団はかなり有力な門徒団で、この連坐像以外にも用いられた品が伝えられている門徒団です。
(熊野恒陽 記)