【六】「興正寺建立以前」

2019.08.26

 興正寺は事実上歴代の第七世とされる了源上人によって開かれます。上人は関東で教えをうけ京都に興正寺を建立しました。興正寺は親鸞聖人の関東の門弟の流れをくんでおり、聖人の教えが関東から京都におよんで開かれた寺といえます。興正寺の建立は親鸞聖人の入寂からおよそ六十年後のことになります。

 

 了源上人は本願寺第三世の覚如上人の長子存覚上人とかかわりがふかく、存覚上人が著した『存覚一期記』という記録に了源上人のことが書かれています。それによると、六波羅探題の大仏維貞という武士の家人に比留維広という人がおり、了源上人はその比留維広の中間であって、俗名を弥三郎といったといいます。

 

 六波羅探題は鎌倉幕府が京都の守護のためにおいた役職で、西国の裁判や軍事をつかさどり、幕府の実権をにぎっていた北条氏の一族がこの職につきました。大仏氏も北条氏の一族で、鎌倉の大仏がある地に住んでいたことから大仏を家名としていました。

 

 大仏氏は名門の武士といえますが、了源上人はその家来のさらに家来にあたり、中間であったといっていますから、あまり高い身分の人とはいえません。中間とは武士につかえて雑務をおこなうもので、武士にしたがって戦場におもむいたり、武士の所領支配の補佐をしたりします。「中間は名字なき者にて候」といういいかたもされていて、普通は名字ももたなかったようです(小早川弘景置文)。

 

 こうしたことをきらってか、佛光寺では了源上人は中間などではなくもっと高い身分の人だといって、伝統的に『存覚一期記』の記述は偽作されたものだとの主張をくり返しています。では、上人はどのような出自であったのかというと、それは明らかにはされていません。あくまで上人が中間ではないというため『存覚一期記』は偽作されたものと主張しているようです。

 

 中間だといっても、むしろそれによって主人から保護され、活動を支援されることもあって、中間であることが逆に有利となることもあります。上人の場合も主人がいたことが有利にはたらいたように思えます。

 

 『存覚一期記』には上人の主人は比留左衛門太郎維広という名の武士だと書かれています。了源上人の師である明光上人の系統は鎌倉から西国に進出し、備後国沼隈郡山南(広島県沼隈町)の地に光照寺という寺を開きますが、鎌倉末期、山南の地を知行していたのも了源上人の主人とされるこの比留維広でした。

 

 広島県の厳島神社の文書に「…ひんこ(備後)の国さんな(山南)うけところ(請所)の事、本ハひるのきやう部さえもん(比留刑部左衛門)入道知行所にて候、まこ(孫)ひるのさえもん(比留左衛門)太郎まてに、ちきやう(知行)とうけ給候…」と書かれたものがあり、山南の地が比留刑部左衛門から孫の比留左衛門太郎へとうけつがれて知行されていたことが知られます。

 

 文中にみえる「ひるのさえもん太郎」は、山南の地に明光上人の系統をひく光照寺が建てられていることから考えても、了源上人の主人である比留左衛門太郎維広とみて間違いありません。

 

 おそらく比留維広は明光上人とも親しい関係にあって、そのつながりから領内に明光上人の系統の寺を建てさせたものとみられます。鎌倉幕府の西国支配がすすみ、西国と鎌倉の交流がさかんになるなか、真宗の教えも鎌倉から西国へと伝えられていきますが、その背景に武士の支援があったことがうかがえます。

 

 比留維広のこうした動向からいっても、維広は了源上人の活動を支援していたとみるべきで、上人は主人である維広の協力のもと、便宜をえて活動していたといえると思います。

 

 比留維広がつかえていたのは北条氏の一門である大仏維貞ですが、この大仏氏の一族は代々鎮西白旗流の浄土宗を保護しており、大仏維貞の曽祖父は浄土宗鎮西派の然阿良忠のために鎌倉に悟真寺という寺を建てています。

 

 一方で、荒木門徒でも悟真寺についての伝承が語られていて、荒木門徒の祖である源海上人が在俗時代に鎌倉で悟真寺を造営したと伝えていました(親鸞聖人御因縁)。荒木門徒の伝承はあくまで伝承ですが、了源上人をふくめ荒木門徒は、悟真寺や大仏氏と何かつながりがあったように思います。

 

 これら大仏氏や比留氏のことなどは『存覚一期記』があってはじめて知られることです。偽作どころか、上人の活動の背景をもうかがえる重要な史料といわねばなりません。

 

(熊野恒陽 記)

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