【六十二】 「海老名五郎左衛門」 ~山科本願寺の寺地を寄進~

2019.08.27

 文明十年(1478)一月、蓮如上人は河内出口から山科へと移り、山科に本願寺の堂舎の造営をはじめます。山科での本願寺の堂舎の造営は文明十五年まで続きます。経豪上人が本願寺に参入するのは、この山科で本願寺の堂舎が造営されている最中のことです。

 

 本願寺の堂舎が造営されたのは山科のうちでも野村という地です。野村の寺地については、古来、この寺地は野村に住んでいた海老名五郎左衛門という者が蓮如上人に寄進したものと伝えられています。

 

かの地は、野村の住人海老名五郎左衛門所持地也。五郎左衛門、かねて上人の教化をたふとみけれは…この地を上人へ寄附し奉る

 

 蓮如上人の一生をまとめた『蓮如上人縁起』の一節です。野村の寺地を海老名五郎左衛門が寄進したとするこの伝えはおおむね事実を伝えたものといわれています。海老名五郎左衛門というのは実在の人物ですし、その海老名氏の一族が野村の地に強い権限をもっていたのも本当のことです。のち山科の本願寺は焼かれ、本願寺はこの地を去りますが、本願寺が去ったあとに本願寺の跡地を管理していたのも海老名氏の一族です。

 

 蓮如上人に寺地を寄進した海老名五郎左衛門については、五郎左衛門は法名を浄乗といい、山科の西宗寺を開いたと伝えられています。西宗寺は現に山科にある寺で、この寺には文明十三年、蓮如上人が浄乗に下した阿弥陀如来の絵像も蔵されています。西宗寺の絵像が蓮如上人から浄乗に下されたことは、絵像の裏書から知られることです。五郎左衛門が浄乗と名乗り、西宗寺を開いたということも信じてよいことです。

 

 この海老名五郎左衛門は野村郷を代表して、山科七郷惣郷の寄合いに参加していたことも知られています。山科七郷惣郷とは、山科の各郷の代表者たちによって運営されていた山科の自治組織です。各郷の代表として惣郷の寄合いに参加したのは、各郷のおとなと呼ばれる人たちです。この時代の山科には各郷にそれぞれ数名のおとながいました。おとなは乙名とか老と表記されます。郷内の有力者がおとなになりました。五郎左衛門はまさにこのおとなであったわけです。

 

 山科七郷惣郷は、地域の自治と自衛のため、住民たち自らが結んだ組織です。七郷惣郷は自治組織としても大きな役割をはたしましたが、自衛の面でも大きな力を発揮しています。七郷惣郷の実力は相当なもので、集団で武装して守護の勢力と戦うことさえありました。

 

 山科のこうした状況からすれば、本願寺が山科に堂舎を建立できたのも、単に海老名五郎左衛門が寺地を寄進したから堂舎を建立できたということではなかったということになります。山科を実質的に取り仕切っていたのは惣郷の組織です。堂舎の造営にも惣郷の承認が必要であったはずであり、本願寺も惣郷の承認があってはじめて堂舎を建立できたものとみられます。

 

 本願寺と郷民との関係はおおむね良好だったようですが、時には摩擦が生じることもありました。

 

西山進藤民部、野村本願寺のはやし物見物してふまる。暁よせ候。明日、ふミ候者ニ腹きらすへきのよし候也(『山科家礼記』)

 

 本願寺と郷民との間に生じた事件のことを記した記録で、西山郷の進藤民部という者が、本願寺の囃子物を見物した際に足を踏まれことから、本願寺に押し寄せ、足を踏んだ者に腹を切らすように迫ったと述べられています。進藤民部というのは西山郷に住む有力郷民とみられます。足を踏んだのは本願寺の者です。この件で、結局、足を踏んだ者は死んでしまいます。しかし、事件はこれだけでは終りませんでした。死んだ者の側から、進藤は人を死に追いやったとして、逆に進藤を攻撃しようとする者が現われたのです。この時、進藤を討とうとした者こそ、海老名五郎左衛門浄乗です。浄乗は実際に進藤のもとへと押し寄せましたが、本願寺が浄乗をなだめ、進藤のもとから浄乗を呼び返しました。寺を開いたというわりには、浄乗の行動は荒々しいものですが、当時の真宗にはこうした荒々しい門徒は珍しくはなかったものと思います。

 

 海老名五郎左衛門は山科の寺地を寄進した人であり、本願寺にとっては大きな貢献をした人ということになります。しかし、この五郎左衛門も最初から本願寺の門徒であったわけではありません。当初、この五郎左衛門は佛光寺の門徒であったとみられます。五郎左衛門は西宗寺を開いていますが、この西宗寺は興正寺の末寺でした。五郎左衛門がもとは佛光寺門徒であったということを示しています。

 

(熊野恒陽 記)

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