【六十五】 「本願寺参入 その三」 ~比叡山からの圧力~

2019.08.27

 文明十三年(1481)十一月三日、比叡山の衆徒は経豪上人の佛光寺住持職の解任を求める、集会の議定書を発します。経豪上人が佛光寺本来の教えを守らずに本願寺の無碍光の義を張行しているとして、経豪上人の住持職の解任を要求したものです。

 

文明十三年十一月三日 山門大講堂集会儀曰 可早被啓達畠山殿事 右、吾山者、峰安十二大願尊像、励衆病悉除之秘術、蓮亦厳三七和光之権排、祈国土安寧…爰頃年、吹魔風頻扇台嶺法灯、満邪宗四海隔正法、依之隠霊神擁護之威、失仏陀済度之便、是以謗法輩、為山門雖加制止、猶以興行之間、加州一国既為無主之国土、民族致遵行之条、頗可謂亡国歟…然汁谷佛光寺之事、先年本願寺破却砌、可及其沙汰之処、為妙法院殿、於彼寺者本願寺非一流之宗体、為法類各別、当門跡候人之由、被仰分之間、寛宥之処、近年居当国平野、曽以不及旧跡再興興行、閣先祖相伝之法流、無碍光之義張行云々、乱満之基、太以不可説也、所詮退彼佛光寺之住持、本尊并聖教以下、山門渡給者、以由緒、器用之仁体、可定住持者也… (「佛光寺文書」)

 

 本願寺の教えを邪宗であるとし、それに与する経豪上人の佛光寺からの追放が求められています。

 

 ここでは本願寺の教えがひろまり、その結果、加州、すなわち加賀の国は無主の国となって、一般の人が国を支配するようになったと述べられています。これは加賀で一向一揆が発生し、あたかも一揆勢が国を支配するようになったという状況を指していったものです。加賀の一揆勢の力は強大で、この議定書が発せられてから七年たった長享二年(1488)には、守護を自害させ、完全に国を支配下におさめます。比叡山の衆徒はそうした一揆の支配を亡国の企てとして、それを引き起こした本願寺を非難しています。そして、その上で、その本願寺に与する経豪上人を批判しています。

 

 加えて、衆徒は、先年の本願寺の破却の際、佛光寺も破却するはずであったが、妙法院門跡が佛光寺と本願寺は法義が違うと主張したので破却を免除した、ともいっています。これは比叡山衆徒が本願寺を破却した、いわゆる寛正の法難のことをいったものです。衆徒は、その際には妙法院門跡が佛光寺と本願寺は教えが別だといったことから破却を免除したのに、それにもかかわらずその佛光寺の住持である経豪上人が本願寺に与しているのは余計に許しがたいことだ、といっています。そして、そうした経豪上人を追放して、新しい住持を就任させるよう要求しています。

 

 議定書に「可早被啓達畠山殿事」とあるように、この議定書は畠山殿に対して出された議定書です。畠山殿というのは畠山政長のことです。畠山政長は室町幕府の管領で、山城国の守護もつとめていました。

 

 この議定書には経豪上人について、経豪上人は、近年、当国の平野にいると述べられています。経豪上人は応仁の乱で焼失した渋谷の佛光寺の堂舎を再興することもなく、当国の平野にいて、本願寺の無碍光の義を張行しているというのが、ここでの衆徒の主張です。問題はこの当国といういい方です。この文書は山城国にある佛光寺の住持のことを山城国に支配力をもつ畠山政長に訴えたものです。したがって、この当国も山城国を意味します。佛光寺は摂津国の平野を活動拠点の一つとしており、経豪上人も本願寺参入以前は摂津平野にいたとみられますが、これでは経豪上人は摂津ではなく、山城の平野にいたことになります。

 

 議定書は経豪上人がいたのを山城の平野としていますが、この議定書の記述にはいささか疑問がのこります。摂津の平野が佛光寺に縁の深い土地であることは間違いのないことです。平野には佛光寺六坊の一つである新坊が兼帯した光源寺があり、経豪上人の父、性善上人も摂津平野にいて、平野で亡くなっています。これに対し、山城の平野の方は佛光寺とのつながりを伝えるものは何らのこされていません。こうした状況からいっても経豪上人がいたのは摂津の平野だと考えられますし、それに経豪上人と性善上人が親子で山城と摂津に別れていたにしろ、その双方が同じ平野という名の地にいたというのも不思議な話です。経豪上人が山城にいたとしてもおかしいわけではありませんが、議定書には誤りがあるとみるのが自然だと思います。比叡山の衆徒も経豪上人を実際に監視していたわけではなく、伝聞で上人の動向を知ったのでしょうから、伝聞上の誤りがあったのだと思います。

 

(熊野恒陽 記)

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