【六十六】 「本願寺参入 その四」 ~経豪上人が山科に移った契機~
2019.08.27
比叡山の衆徒は、文明十三年(1481)十一月三日、畠山政長に対して、経豪上人を佛光寺から追放するように求めた議定書を発します。衆徒は、経豪上人が本願寺に与しているとして、経豪上人の佛光寺から追放を求めています。議定書のなか、経豪上人は平野の地にいて、本願寺の無碍光の義を張行していると述べられています。
それから半年ほどたった文明十四年四月二十六日、比叡山の衆徒は、今度は佛光寺の本寺である妙法院門跡に対し、議定書を発します。
文明十四年卯月廿六日山門大講堂集会議曰 可早被啓達妙法院門跡事 右、破邪帰正者仏教之大底、止悪修善者戒門之法度也、爰大谷本願寺者邪法之張行、亡国之企、遮眼・・・今般花恩院大納言、無碍光衆一味段、令露顕之条、以外濫吹也、然間江州末流之族、為国方可令追放之由、申遣了、但兄弟内以正法発起之人躰、佛光寺住持職御補任在之云々、依之末流輩就贔屓、亦相分之由在之、然上者就邪正差別、両方与力輩註分可給也、然者重而遂糺明、於無碍光衆同意者、堅加罪科、 至根本如法之輩者、可令免除之由、群議而已(「妙法院文書」)
この議定書も本願寺の教えを邪法とし、それに与する経豪上人を批判したものです。衆徒は、経豪上人が無碍光衆と一味になっていることはもはや明白で、これははなはだけしからぬことだといって、経豪上人を批判しています。花恩院大納言とあるのが経豪上人のことです。
半年のうちに事態は進展しており、この議定書には、佛光寺の住持について、経豪上人の兄弟で正法を守っている人を佛光寺の住持に補任した、と述べられています。この兄弟とは経誉上人のことです。経誉上人は経豪上人の弟で、経豪上人が去ったあとには、この経誉上人が佛光寺の住持となりました。経誉上人を住持に補任したのは妙法院門跡で、衆徒も妙法院からの報告をうけて経誉上人が住持になったことを知ったため、ここでも住持職の補任については「御補任在之云々」と伝聞の形式で記されています。
経誉上人が佛光寺の住持となったことによることとして、この議定書には、経誉上人が住持となり、佛光寺の門末が経豪上人を支持する派と経誉上人を支持する派に分かれたと述べられています。衆徒はそれについて、門末がどちらの派に属するのかを調べるように求めており、その上で経豪上人に加担する者には罪科を加え、経誉上人に従う者は罪を免除する、といっています。近江の国についてはすでに対策がとられていて、近江の門末で経豪上人に加担する者は居住の地から追放するように国に申しつけたと述べられています。
経誉上人が住持となって門末が二つに分れたと表わされてはいますが、要は、経豪上人が佛光寺を去って門末も二つに分れたということです。ここからかなりの門末が経豪上人に従ったことと、そのために佛光寺に大きな混乱がもたらされたことがうかがえます。多くの門末が経豪上人に従ったのも、あらかじめ経豪上人がともに本願寺に参入するように門末の掌握をはかっていたからで、経豪上人の本願寺への参入が唐突に行なわれたわけではないことが判ります。
最初の議定書が出されてから次の議定書が出されるまでの半年ほどのうちに経豪上人にみられた変化としては、上人はこの間に山科へと居住の地を移していて、妙法院に対する議定書が出された文明十四年四月の段階にはすでに山科に住んでいたものと思われます。本願寺への参入ののち、経豪上人は山科へと移り、山科に興正寺を興しますが、文明十三年十一月三日の比叡山衆徒の議定書には上人は平野の地にいると述べられています。この記述に信をおくなら、文明十三年十一月の段階では上人はまだ山科には移っていないことになります。経豪上人の山科への移住はこの十一月の比叡山衆徒による弾劾から程なくのことと考えられ、おそらくはこの弾劾を直接のきっかけとして山科へ移ったものと思われます。弾劾されたことから、それまで住んでいた地に住むわけにいかなくなり、それで山科へ移ったものと思います。
経豪上人が山科に住むことは参入の当初から計画されてはいたと思われ、いずれ上人は山科に移ることになっていたのでしょうが、上人が山科へと移るより直接の契機とするならば、上人に対する比叡山衆徒の弾劾が直接の契機となるのだと思います。
(熊野恒陽 記)