【六十八】 「山科興正寺」 ~蓮教上人による興正寺の再興~

2019.08.27

 本願寺参入後、蓮教上人は興正寺を再興します。興正寺が建てられたのは山科です。興正寺の寺号は佛光寺のもとの寺号であり、佛光寺が京都渋谷へと移る前、山科にあった時に号したのが興正寺の寺号です。興正寺はまさにその山科に再興されたのです。

 

山科に参扣し、むかしのごとく坊舎をたて、はじめの名にかへされ興正寺と号す。 これは空性坊了源、覚如上人へ参入のとき此所に立てられし一寺の称号なり。 佛光寺とは当家退散のゝち渋谷にをいて号せられし名なり(『反故裏書』)

 

 蓮教上人の本願寺参入について触れている『反故裏書』には、蓮教上人が山科へと移り、その山科に昔のように坊舎を建て、はじめの名である興正寺の寺号を号したのだと述べられています。さらにこの『反故裏書』は、興正寺の寺号は了源上人が覚如上人の門下であった時に建てた寺の号であり、佛光寺とは了源上人が覚如上人の門下を離れたのち、京都渋谷において号した寺号なのだといっています。

 

 蓮教上人が興正寺と号したことについては、一般にこの興正寺の寺号は蓮如上人が蓮教上人に授けたものだということがいわれます。『反故裏書』には興正寺の寺号を蓮如上人が授けたと明記されているわけではありませんが、『反故裏書』は興正寺の寺号は了源上人が覚如上人の門下であった際に称した寺号だといって、興正寺の寺号を本願寺に関係深いものとして捉えています。要は興正寺の寺号は覚如上人が了源上人に与えたものだといっているわけで、門下を離れからのちに佛光寺との興正寺とは違った寺号を称したというのも門下を離れた際に興正寺の寺号を返させたということをいったものです。ここからすれば、蓮教上人の興正寺の寺号も蓮如上人が授けたということになります。

 

 覚如上人が興正寺との寺号を授けたというのは事実です。しかし、これは形式的なものであって、おそらくは了源上人が覚如上人に頼んで覚如上人が了源上人に寺号を授けるというかたちを採ったものと思われます。興正寺との寺号は聖徳太子に因んだ寺号です。了源上人が興正寺を開くにあたってまず造ったのは聖徳太子像であって、了源上人が深く太子を崇敬していたことは明白です。了源上人の太子崇敬ということを踏まえれば、太子に因んだ興正寺の寺号も了源上人自らが選んだものとみるのが妥当のように思われます。

 

 蓮如上人が蓮教上人に興正寺の寺号を授けたというのも、覚如上人が了源上人に興正寺の寺号を授けたとの形式が採られたために、興正寺の寺号があたかも本願寺が使用の権利を有するもののようになっていたことから採られた方策です。授けられたとはいわれますが、この興正寺の寺号は蓮教上人が望んだものであって、むしろ蓮教上人の要求によって号することになった寺号なのだと思います。興正寺の名は佛光寺のもとの名であり、それも山科にあった時の寺の名です。蓮教上人とすれば、まさにその山科に建つ寺として、寺の名は興正寺でなければならなかったはずです。

 

 蓮教上人がかつての興正寺の所在地として山科の地を強く意識していたことは当然のことともいえますが、この山科を興正寺のかつての所在地とする意識は、蓮如上人をはじめとする本願寺側の人びとにもあったものとみられます。『反故裏書』は了源上人が建立した興正寺に触れ、その興正寺の寺号について「此所に立てられし一寺の称号なり」と記しています。興正寺の寺号は、興正寺が「此所」、すなわちこの場所に建っていた時の寺号だ、ということをいっています。換言するなら、本願寺が建つこの地にはかつて興正寺があった、ということをいっていることになります。『反故裏書』は蓮教上人の本願寺参入から八十年以上経った永禄十一年(1567)に著わされた書です。その間に山科本願寺は焼失し、本願寺そのものが山科の地を離れています。そうした時代にあっても、山科の本願寺のあった地にはもと興正寺があったのだとみられていたのだとすると、蓮教上人が本願寺に参入したころには、山科は興正寺の所在地であり、そのあとに本願寺が建ったとする意識は、相当、強く存していたものと思われます。蓮教上人が号する寺号は、やはり興正寺でなければならなかったのです。

 

 了源上人が山科に興正寺を建てたのは、蓮教上人が本願寺に参入する百六十年ほど前のことです。興正寺の寺号を佛光寺と改めたのは、およそ百五十年前です。百五十年の時を経て、蓮教上人により興正寺は再び山科の地に興されたのです。

 

(熊野恒陽 記)

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