【七十三】 「端坊」 ~もともとの佛光寺六坊~

2019.08.27

 興正寺の末寺頭は、端坊、東坊、阿弥陀寺の三箇寺です。このうちの端坊は開基の名を明源と伝えています。端坊の伝えでは、明源は俗名を大庭景明といい、親鸞聖人の弟子となって、聖人から明源の名を賜ったのだとされています。

 

 端坊は明源を親鸞聖人の弟子と伝えていますが、明源との名については、了源上人の弟子に明源という人物がいたことが知られています。了源上人の弟子に明源という人がいたのは確かなことで、『親鸞聖人門侶交名牒』という記録に了源上人の弟子として明源の名が記されています。端坊が興正寺の末寺であることからいって、端坊の開基の明源とはこの了源上人の弟子の明源なのだと思われます。親鸞聖人の弟子が開いた寺ではないとはいえ、端坊は了源上人の弟子の開いた寺なのであり、古い由緒のある寺だということが分かります。

 

 端坊の伝えによれば、大庭氏は景明の父景貫以来、山科の野村に所領をもっており、明源は野村に草庵を設け、そこに住んでいたとされています。

 

 この草庵は建武二年(1335)、戦火によって焼失したとされていて、端坊はその後に渋谷の佛光寺の境内の地を与えられ、境内に坊を建立したのだとされています。端坊があったのは境内の乾の角、すなわち北西の角だとされています。

 

 端坊は佛光寺境内に坊を構えていたのであり、端坊との位置関係を示す坊号も、現今の佛光寺六坊の坊号である南坊、西坊、中坊、奥坊、角坊といった坊号と対応していますが、これについて端坊は、端坊はもともとの佛光寺六坊であって、六坊の筆頭だったのだといっています。

 

六坊の随一に而御座候(『常在京中由緒書』)

 

 端坊が六坊の筆頭であったのかはともかくとしても、端坊が六坊の一つであったことはありうることです。現今の佛光寺六坊には、佛光寺が渋谷から現在の五条坊門の地に移ってから佛光寺門前に坊を構えたと伝えている坊もあります。佛光寺が渋谷から五条坊門に移るのは、蓮教上人が佛光寺を出てから百年ものちのことです。六坊にも入れ替えがあったということをうかがわせます。

 

 普通、六坊については、もともと佛光寺に四十八の坊があり、そのうち四十二の坊が蓮教上人に従い、六つの坊のみが佛光寺にのこって、それが佛光寺六坊となったのだと説かれます。六坊がそうしたものであるのなら、ここで端坊がもとの六坊であったといっているのはおかしな主張だということになります。端坊は蓮教上人に従った寺です。ならば端坊は蓮教上人に従った四十二坊の一つであり、もともと佛光寺にあったという四十八坊の一つであったということになります。その端坊が、四十八坊の筆頭であったとはいわずに、六坊の筆頭だといっているのです。

 

 しかし、これは端坊の主張がおかしいというよりも、むしろ佛光寺には四十八坊があり、そのうち六つの坊がのこって六坊となったとすることの方がおかしいのだと思います。六坊の体制は蓮教上人が佛光寺を去ったのちに出来たものなどではなく、それ以前からすでに佛光寺にあったものなのだと思います。端坊の寺伝もそれを伝えているものと思われます。端坊はかつての佛光寺について、六坊があったということだけではなく、佛光寺には六坊と四十八院があったということも伝えていますが、この四十八院なるものも一般にいう四十八坊ということからの連想でいわれたもので、特に意味のあるものとは思われません。

 

 蓮教上人の本願寺参入については、端坊は端坊六世の明芸が蓮教上人を本願寺に導いたといっています。明芸が山科で蓮如上人の話を聴いたところ日ごろの疑いがはれたので、渋谷に戻って蓮教上人にその旨を伝えると蓮教上人も蓮如上人を崇敬するようになったというのです。端坊の伝えは、渋谷で蓮如上人に帰依することを六坊四十八院で評議したが、意見は一致しなかったので、蓮教上人は明芸だけを連れ山科に向かったと続きます。

 

渋谷へ帰り、興正寺御寺務経豪上人へ蓮如様御教化之趣申上候へ者、経豪上人しきりに御帰依之思召有之候ゆへ、六坊四十八院を被召集、御評議被成候へ共、衆議一決難仕候ニ付、経豪上人ひそかに明芸計を被召連、山科御本廟ニ御参被成(『常在京中由緒書』)

 

 もとよりこれらはあくまで寺伝であって、本願寺参入に際しての実際の様子を伝えているとはいい切れません。しかし、実際の様子はどうであれ、この端坊が興正寺に従ったということには大きな意味があります。その後、端坊は興正寺の末寺として、さまざまな局面において重要な役割をはたすことになります。

 

(熊野恒陽 記)

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