【七十四】 「諸門流の参入 その一」 ~三門徒の人びと~

2019.08.27

 蓮教上人は蓮如上人の時代に本願寺に参入しますが、蓮如上人の時代には、蓮教上人だけでなく、さまざまな門流の人びとが本願寺に参入しています。

 

こゝにひさしく疎遠の末弟も信証院御在世にいたり帰参の流々これあり

 

 永禄十一年(1568)、蓮如上人の孫である顕誓が著した『反古裏書』の一節です。信証院とは蓮如上人の院号です。蓮如上人の在世中にいろいろな門流の人たちが参入してきたといっています。『反古裏書』は顕誓の時代までの本願寺の歴史を記したもので、蓮如上人の代に本願寺に参入した門流についてもまとまった記述がみられます。この書に本願寺に参入した門流として取り上げられているのは、越前三門徒、毫摂寺、錦織寺、そして、佛光寺の門流で、それぞれの参入の様子なども記されています。

 

 それによると、このうちもっとも早くに参入したのは三門徒の系統だとされていて、三門徒に属した人たちは蓮如上人が吉崎にいる間にあらかた本願寺に帰したのだと述べられています。

 

横越の道性、鯖屋の如覚、中野坊主…三門徒おがまずの衆と号する者なり。 然ども蓮如吉崎御在津より大略心中をあらため本寺へ帰参せしむ

 

 道性は山元派本山証誠寺、如覚は誠照寺派本山誠照寺の事実上の開基で、中野の坊主は浄一という人物を指しています。浄一は三門徒派本山専照寺の事実上の開基です。この三人は蓮如上人よりも古い時代の人たちです。この三人の系統につらなる人びとが本願寺に参入したのだということが述べられています。

 

 三門徒の名は、いまでこそ専照寺を本山とする一派の名となっていますが、本来は証誠寺、誠照寺、専照寺の系統につらなる人たちを指し示す総称として用いられた名です。この三寺は法脈の関係も近く、もとは一つの集団から派生して成立していった寺々です。

 

 この三寺の共通の祖となるのは越前国足羽郡大町(福井市)にいた如道という人物です。如導とも書かれます。如道を開基とするのは大町専修寺という寺で、三門徒の三本山はこの専修寺から分かれて成立します。

 

 まず分かれたのが証誠寺です。専修寺から分かれて証誠寺を開いたのが道性で、道性は如道の弟子です。この証誠寺からさらに分かれて成立したのが誠照寺です。誠照寺を分立させたのが如覚で、如覚は道性の息男といわれています。

 

 専照寺も専修寺から分かれた寺ですが、専照寺はまさに専修寺が分裂して開かれた寺です。専修寺の勢力が二つに分かれ、その一方の勢力が専照寺を開きました。専照寺を開いたのは浄一という人です。浄一は如道の三男とも、如道の弟子の子だともいわれています。

 

 大町専修寺は証誠寺、誠照寺、専照寺の三本山を派生させた寺で、三門徒の本寺ともいうべき寺ですが、大町専修寺から生じた寺はこれだけではありません。敦賀市原の西福寺も専修寺の系統につらなる寺です。

 

 西福寺は浄土宗鎮西派に属する寺で、浄土宗鎮西派の中本山を称する巨刹です。西福寺は多くの仏画や典籍を伝えることでも知られています。この西福寺は良如という僧によって開かれますが、良如は如道の長男にあたる人物です。

 

 専修寺の開基、如道は法脈としては、親鸞聖人から真仏、顕智、専海、円善、そして、如道とつづく法脈を相承しています。高田の真仏、顕智につらなる高田門徒ということになりますが、如道の相承しているのは高田門徒のなかでも三河にひろがった門徒団の法脈です。専海、円善は三河の人です。

 

 如道は教学の知識も豊富であったようで、本願寺の覚如上人、存覚上人親子から『教行信証』の伝授をうけています。この伝授は実際には存覚上人が行なったものですが、覚如上人も大町に下向して行なわれたものです。覚如上人はこの時、親鸞聖人の寿像である鏡の御影を携えて下向しています。聖人の寿像をかかげ、その前で伝授を行なうためです。この伝授が本願寺としての正式な伝授であったことが分かります。

 

 大町専修寺も、覚如上人の時代には本願寺と交流がありましたが、その後は次第に疎遠になっていきます。証誠寺と誠照寺にしても同様で、この二つの寺も当初は本願寺との交流もあったようですが、その後は疎遠になっていきます。それが蓮如上人の代になると、関係が復活し、三門徒の人びとは大挙して本願寺に参入することになります。専修寺も蓮如上人の代になって、関係を戻し、本願寺に参入します。

 

(熊野恒陽 記)

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