【七十七】 「本願寺教団 その一」 ~蓮如上人による門徒団の形成~
2019.08.27
蓮如人上人は十五歳の時、真宗興行の志しを立てたと伝えられます。親鸞聖人の教えを人びとにひろめるのが蓮如上人の願いであったといわれています。
蓮如上人が本願寺を継ぐのは、その後二十余年を経た、四十三歳の時のことですが、本願寺を継いだのち、蓮如上人はそれまでの本願寺の住持はしてこなかった、あらたな活動をはじめます。蓮如上人がはじめたのは、普通の人びとに教えをひろめる庶民教化の活動と、本願寺を本寺として門徒団を形成していくとの活動です。両方とも従来の本願寺住持がしてこなかった活動です。
継職後の蓮如上人は、本願寺を本寺とする門徒団の形成をすすめていきますが、その際、はじめに蓮如上人に帰依していったのは、比較的に小規模な道場の坊主たちです。自分の寺だけではなく、その下にさらに配下の道場をかかえるような大坊主は、そうした弱小の坊主よりも遅れて本願寺に参入します。これは蓮如上人が下した下付物の伝来の状況からもうかがえることです。
本願寺を継いだのち、蓮如上人は十字名号の下付をはじめます。蓮如上人が下したのは紺地に金泥で帰命尽十方無碍光如来との十字名号を書いたものです。蓮如上人が十字名号を下したのは限られた期間だけです。十字名号は、継職後、間もなく下付されるようになり、寛正の法難で本願寺が破却されたのちはほとんど下されなくなります。寛正の法難で本願寺が破却されるのは蓮如上人が本願寺を継いでから八年後のことです。十字名号は蓮如上人の教化活動のなかでは早い時期にだけ下されたものということになります。
この十字名号の伝来の様子をみると、これらの十字名号は現今の滋賀県下に多く伝来しています。十字名号を下された人びとこそ、はじめに蓮如上人に帰依した人びとですが、それらの門弟たちは現今の滋賀県、すなわち昔の近江国に多くいたということが分かります。さらにこれらの十字名号を伝えている寺についていえば、これらの十字名号は必ずしも大きな寺に伝えられているというわけではありません。比較的に小規模な寺院にも伝えられています。十字名号は小さな道場に下されたということです。十字名号を授けられたのは、あらたに道場を開いた者か、すでに道場を構えていて、その上で蓮如上人の弟子となった者です。さほど大きくもない寺に十字名号が伝えられたということは、小規模なお道場の坊主たちが蓮如上人の弟子となったことを反映するものということができます。
物が動く場合には、まずは軽い物が動き、ついで重い物が動きます。蓮如上人による門徒団の形成の際にも、まずは弱小な坊主が本願寺に参入していったのです。大坊主は、蓮如上人のもとに人びとが集まりだし、蓮如上人のもとに人びとが集まるということが一つの流れとなった段階で本願寺に参入していきます。
もとよりこれは大まかな傾向であって、大坊主の者でも早くから本願寺に参入した者はいないわけではありません。大坊主の者で割合に早く本願寺に参入するのは三河の如光という人物です。如光は三河国幡豆郡志貴庄佐々木(岡崎市)の上宮寺の住持だった人です。三河は親鸞聖人の在世中に真宗が伝わり、以後も真宗が大きく発展していった地です。三河の真宗の発展の拠点の一つとなったのがこの上宮寺でした。
如光が有した坊主としての勢力は相当に大きなものです。如光の没後、十余年を経て、如光の弟子の道場を書きつらねた記録が作られますが、そこに記された道場は百箇所を越えています。道場の所在地も広範であって、三河のみならず、尾張、美濃、伊勢に及んでいます。寛正の法難で本願寺が比叡山によって破却された際、如光は、比叡山の本当の目的は本願寺から末寺銭を取ることだとして、三河から末寺銭を取りよせ、その金を比叡山の山徒に踏みつけさせてやる、といいはなったと伝えられています。これも配下に多数の道場をかかえていたからこそ述べることができた文句だといえます。如光の豊かなさまがうかがわれます。
如光は大坊主というだけではなく、学匠としてもすぐれていた人です。篤信の人でもあり、その真宗理解には蓮如上人も信頼をよせていました。この如光の本願寺参入後、三河の真宗の坊主たちは、順次、本願寺に参入していきます。如光は本願寺の三河での門下獲得のきっかけになった人物といえますが、如光は、元来、高田門徒の人です。蓮如上人による門徒団形成の活動は、別の門徒団を本願寺の門徒団に取り込むというかたちですすんでいったのです。
(熊野恒陽 記)