本寂上人150回忌

 興正寺第27世本寂上人150回忌法要に向けた情報を発信していきます。

 本寂上人は、江戸末期の文化5年(1808)に、後の関白鷹司政通公の次男としてご誕生されました。3歳の時に興正寺に入寺され、11歳の時に第27世を継職されます。継職された上人は、この頃より日記を書き留められ、15歳になると冷泉家への歌道入門、南都方楽所窪家へ入門し篳篥を奏するなど、文化的素養も身につけていかれました。 

 また上人は、京都地震(文政地震)の山内修復、大塩平八郎の乱により焼失した大阪天満御坊の再建、本山経蔵の建立、宗祖600回忌法要の厳修など多くの事業をなされ、近代へと向かう興正寺の礎を築いていかれました。

 幼少期より教学研鑽に励まれるとともに、能筆家でもあった上人は、多くの御消息を発布されるとともに、地方へのご巡化も積極的に行われ、門徒教化にもご尽力くださいました。

 幕末から明治へと大きく時代が動き出そうとしている時代、上人は、勤王家として近代日本の夜明けを支えられるとともに、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、先頭に立ち諸宗同徳会盟を設立して仏教各宗を大同団結させ、日本仏教の法灯を護られた立役者でもありました。

 ところが本寺西本願寺との宗教政策に関する意見の相違から対立が起こり、明治9年(1876)9月13日、興正寺は西本願寺からの別派独立を成すことになります。

 上人はすぐさま教線拡大に臨まれ、明治9年(1876)9月5日に念仏解禁となった鹿児島の地へ翌10月に赴き、鹿児島開教に着手されました。これを機に鹿児島の地には、多くの真宗興正派寺院が創建されていくことになります。

 興正寺の独立、真宗興正派の一派創建、教線拡大など多くの事績を残された上人でしたが、明治10年(1877)12月12日、満69歳で示寂されました。諡は大慶喜心院。上人のご遺骨は、本山興正寺霊山本廟に納められています。

 真宗興正派では、今日まで続く仏法興隆の道を切り開いてくださった第27世本寂上人を「中興の祖」と位置づけ讃仰しています。

如法念仏作法

如法念仏作法についての解説と冊子・動画へのリンクとなっています。

PAGETOP