【百八】 「御堂建立」 ~本願寺の堂舎建立のあとに興正寺も堂舎を建立~

2019.08.27

 山科興正寺の焼失後、蓮秀上人は天文二年(1533)の八月になって大坂へと移ります。大坂寺内にはすでの興正寺の坊舎が建っていて、蓮秀上人はその坊舎へと移りました。天文二年の十月、実従はこの興正寺の坊舎を訪れています。

 

興正寺道場ニテ楊弓射候、富、阿、民等也、夕飯持寄也(『私心記』)

 

 興正寺の坊舎は道場と表現されています。その道場で楊弓を射ったのだといいます。楊弓は遊戯用の小さな弓のことです。座敷のなかで、座って射ます。富は富田教行寺、阿は阿佐布善福寺、民は民部少輔で、下間頼盛のことです。それらの人びとが、実従とともに興正寺の坊舎で楊弓に興じたのです。楊弓を射るなら、それなりの部屋の広さが必要です。ここからすれば、興正寺の坊舎はそれほど狭くはなかったようです。

 

 この興正寺の坊舎は本願寺の坊舎から、さほど離れていない地に建っていました。証如上人をはじめ本願寺住持の一族や本願寺の関係者が興正寺を訪れる場合には、皆、徒歩で興正寺を訪れています。

 

 大坂の坊舎は蓮秀上人が移り住む前から建っていたものですが、蓮秀上人が移ったのちも十余年ほどそのまま用いられました。あたらしい御堂が建てられるのは天文十五年(1546)のことです。

 

 興正寺の御堂が天文十五年に建てられているのは、本願寺の動向と関係してのことです。本願寺は天文十一年(1542)にあたらしい御堂を建てて、それを阿弥陀堂とするとともに、その後も寝殿、綱所などを建てて建造物の整備を進めていきます。これにより本願寺にはいくつものあたらしい建物が建てられましたが、それに際して、証如上人は用いられなくなった古い建物を蓮秀上人へと譲っています。証如上人には本願寺とともに興正寺も建造物を整備すべきだとの思いがあったようです。蓮秀上人はそれを機に御堂の建立し、その他の建造物の整備することにしました。

 

仍興正寺之様躰、□見苦候間、今度御□敷被下、可致作事□、被仰出候、難有存候、□其惣御門徒之以馳走、御堂同御座始彼是如形、可取立覚悟候、然者其方各合力之様頼入候(「長光寺文書」)

 

 御堂の建立にあたって、門下に協力を求めた蓮秀上人の書状の一部です。この時の書状だと考えられます。興正寺の様は見苦しいので、座敷を譲られ、作事をするように勧められた、と書かれています。

 

 興正寺の御堂の上棟は、天文十五年の八月五日のことです。証如上人や、証如上人の家族、それに本願寺の一家衆などが見物に来ました。証如上人の日記である『天文日記』に、その時の様子が書かれています

 

興宿ヘ行也、子細者今日興正寺所御堂立柱、即又上棟之間、以野条樽来了、仍為上棟見物大蔵丞屋敷之櫓ヘ相越之処、上棟遅々之間、彼方ヘ以内儀相尋之処、依憚此方儀式者無之候

 

 証如上人たちは、興正寺の御堂の上棟を見物するため、大蔵丞の屋敷の櫓に登っていましたが、上棟の儀式は一向に始まらなかったと書かれています。証如上人の側から興正寺に尋ねたところ、証如上人に遠慮して儀式はしなかった、と答えたとあります。

 

 上棟のための特別な儀式はありませんでしたが、祝いの宴はあって、この後、証如上人たちは興正寺へと移り、宴に加わりました。

 

 証如上人は見物のため、大蔵丞の屋敷の櫓に登っています。大蔵丞の屋敷の近くに興正寺があったことが分かります。大蔵丞は本願寺の家臣である下間真頼のことです。山科寺内では、家臣は本願寺の近くに住んでいましたが、大坂の寺内町でも家臣は本願寺の近くに住んでいたと思われます。興正寺と本願寺がさほど離れていなかったことは、この真頼の屋敷の近くに興正寺があったということからもうかがえます。

 

 この時に建てられた御堂はかなり大きなものであったとみられます。天文十八年(1549)、証如上人は興正寺を訪れていますが、その時、証如上人は興正寺門徒衆、二百人あまりと対面したといっています(『天文日記』)。小規模な堂であったとは思われません。

 

 御堂ばかりか、他の建造物にしても規模は大きかったのだと思います。山科寺内にあって、興正寺の規模は本願寺に次ぐものであったとみられます。大坂にあっても興正寺は大きな規模を誇ったはずです。蓮秀上人は門下に作事への協力を求めていますが、興正寺には多くの門下がいます。興正寺の規模もそれに見合ったものであったのだと思います。

 

(熊野恒陽 記)

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