【百十五】 「西国商人」 ~光明本尊を売っていたとの伝え~
2019.08.27
蓮秀上人の代の興正寺について、興正寺は商業活動を介して教えをひろめていた、ということがいわれることがあります。これは金宝寺という寺の由緒書である『紫雲殿由縁記』という書の記述をもとにいわれるものです。金宝寺は京都にある本願寺派の寺です。『紫雲殿由縁記』は金宝寺の由緒書ですが、本願寺のことについても詳しく述べています。そのなか、本願寺の山科から大坂への移転後の様子を述べた箇所に興正寺が商業と関わっていたとの記述が出てきます。
興正寺世ニ一人為内徳、証如公モ万事任セラレントアリ…時ノ権勢ヲ以テ万事ヲ執行ス、先西国エ越、安芸周防長門其外廻国勧化シ、証如公エ米十三石銭十六貫志ニ進上アリ、大キナル賄ノ助用、興正寺ヨリ毎歳使ヲ下向サセラルヽ、内徳ヲ歓ヒ、堺ニテハ当東之坊伯父東之坊一段俗形ニテ西国商人トナリ…並ニ山科蓄電シタル端坊、堺ニ出テ西国商ヲシ渡世シタリケルカ、両坊トモ ニ西国廻リ覚シヲ幸ニ、興正寺モ得心、両坊モ渡世ノ為メニ毎歳下国ス
本願寺の山科から大坂への移転後のこととして、蓮秀上人が力をもち、証如上人も万事を蓮秀上人に任せたと述べられています。蓮秀上人は安芸、周防、長門といった西国の諸国を勧進し、以後も、毎年、使者を下したとも記されています。そして、興正寺門下の東坊、端坊のことについて、東坊の伯父が堺で西国商人となり、端坊も堺に出て西国をめぐる商人となって、毎年、西国に下るようになった、と述べられています。
続けて、『紫雲殿由縁記』には、興正寺は光明本尊や御文を売り物としていたということも記されています。
光明本ヲ宗門安置ノ絵讃ト定出シ与ヘラレ、蓮師ノ勧文等モ抜出シ売物トセラルヽ
こうした『紫雲殿由縁記』の記述をもとに、興正寺は商業活動を介して教えをひろめていたといわれるようになりました。『紫雲殿由縁記』は、興正寺は光明本尊や御文を売り物としたとするなど、興正寺を勝手な振る舞いをしていた寺として描いていますが、そこから興正寺は本願寺に従わずに、本願寺の意向に反した活動をしていたといわれることもあります。
興正寺が商業活動を介して教えをひろめていたというのはしばしば説かれることですが、そのもとになっている『紫雲殿由縁記』の記述には疑問がのこります。『紫雲殿由縁記』は興正寺が光明本尊や御文を売り物としていたと述べていますが、興正寺が売ったという光明本尊や御文が伝わっているわけではありません。東坊の伯父や端坊が商人となったというのも『紫雲殿由縁記』だけが伝えるものです。『紫雲殿由縁記』の記述のすべてが虚構だとは思いませんが、記述には誇張や作り話が織り交ぜられているものと思います。
『紫雲殿由縁記』には東坊の伯父や端坊が堺で西国商人になったと記されていますが、これも東坊や端坊の活動の様子を誇張して述べているのだと思います。東坊も端坊も西国に多くの末寺をかかえていた寺です。
東坊の末寺が多かったのは安芸国です。安芸の真宗は仏護寺という寺を中心に発展しますが、仏護寺は東坊の末寺です。仏護寺は、現在、本願寺派の広島別院になっています。この仏護寺には多数の末寺がありました。仏護寺には仏護寺十二坊といわれる配下の寺々がありましたが、仏護寺とともに、その十二坊といわれる寺々が末寺をかかえていました。
端坊は周防国、長門国、それに豊後国、豊前国に多くの末寺を擁していました。九州に最初に真宗を伝えたとされる天然が開いた専想寺も端坊の末寺です。
西国に多くの末寺をかかえていたのなら、東坊や端坊が西国に下ることや、西国の者が東坊、端坊を訪れることは頻繁にあったはずですし、西国の者が懇志を納めるということも普通にみられたことだと思います。そうした様子を商人といっているのだと思われます。 堺といっているのは、堺が畿内と西国を結ぶ商業や交通の拠点となる地だったからです。これについては、西国への往来や物のやり取りなどで、東坊、端坊も実際に堺の地との関わりはあったと思います。
『紫雲殿由縁記』の記述はそのままでは信じられるものではありませんが、西国に興正寺の末寺や門徒が多かったのは事実であり、西国の門下と興正寺との交流は盛んであったものとみられます。『紫雲殿由縁記』は、西国の門下との交流が盛んなことを興正寺の特徴として捉え、それを大げさな誇張を交えて述べているのだとみるべきだと思います。
(熊野恒陽 記)