【二百十二】承応の鬩牆 その二十一 一本寺建立之様
2019.09.20
京都を離れて天満御坊に移り住んでいた准秀上人は、承応三年(一六五四)三月二十五日、天満から讃岐へと下ります。天満に移ってから三箇月後のことです。
興正寺殿ハ讃州ヘ御下候由ニ候、是ハ松平右京殿ハ水戸中納言殿御嫡子ニテ、内縁在之ニ付、国中御門弟之事御頼ミ、又江戸ヘ御訴訟ナドノ御相談ト也(『承応鬩牆記』)
讃岐へ下向したのは、松平右京は水戸中納言の嫡子であり、准秀上人と縁があったので、准秀上人は讃岐へ行き、松平右京に国内の門弟のことを頼むとともに江戸幕府への訴訟のことなどを相談するためであったとあります。松平右京とは松平頼重のことで、水戸中納言とは水戸徳川家の徳川頼房のことです。松平頼重は徳川頼房の長男であり、讃岐の高松藩の藩主でした。徳川頼房は常陸の水戸藩の藩主です。徳川頼房は徳川家康の十一男です。頼房はこの後、寛文元年(一六六一)に没しますが、頼房の跡を継いで水戸藩主となるのが徳川光圀です。徳川光圀は松平頼重の弟です。光圀が水戸藩を継ぐことは早くから決められていたことでした。准秀上人は頼房、頼重親子と縁があるとありますが、これは准秀上人の姉である良(やや)が徳川頼房の側室であったということをいったものです。頼房は正室を迎えず、何人かの側室をおいていました。その一人が良です。良は寿光院妙寿と号しました。松平頼重は良の子ではありませんが、こうした縁から准秀上人は頼重と親交がありました。頼重は徳川家の一門に連なる有力者です。もともと縁があったということに加え、讃岐は興正寺の末寺が多い地です。助成を求めるのなら、頼重は最適の人物です。この時、准秀上人は四十八歳、頼重は三十三歳でした。興正寺と高松の松平家との親密な関係は以後も続くことになります。
准秀上人はこの後、四月十一日に天満へと戻ります。准秀上人は天満御坊に戻ると、これまでよりも過激な行動をするようになります。木像の本尊、絵像の親鸞聖人、蓮如上人、七高僧の御影を下付するなど、あたかも一派の本山であるかのような行動を始めたのです。
然所ニ四月中旬より為私新儀共企、一本寺建立之様に振舞(『浄土真宗異義相論』)
准秀上人は四月の中旬から自分勝手な新儀を企て、一つの独立した本寺を建立したかのように振る舞ったとあります。新儀とはこれまでになかった新たな事柄ということで、具体的には本尊や親鸞聖人の御影などを下付したということを指しています。准秀上人はこのほか名号を書き与えるということもしましたし、坊主の座配を定めてそれを特定の者に許すということもしました。准秀上人はさらに蓮如上人の五帖御文を開版してそれを下したり、本来は本山でしか行なわない作法を天満御坊で行なったりするようにもなっていきます。まさしく一派の本寺としての振る舞いです。准秀上人は四月の中旬からこうした本寺のような振る舞いを始めたとありますが、讃岐から天満に戻った直後からそうした振る舞いが始まったということになります。准秀上人は松平頼重の助成に力を得たのであり、頼重の存在を背景に大胆な行動を始めたのです。
本尊や御影は本山である西本願寺の住持が下付するものであり、准秀上人の行為は西本願寺にしてみれば僭越で許されないものです。これに対しては、准秀上人は自身の行為を正当化する理由を用意していました。
下末寺共、西門主の流をきらひ・・・われゝゝ拝み奉る仏像の裏書等は、興門主より出したまはずば、われゝゝ仏を拝み申さずまかり居候事、叶ひ申さゞるあいだ、是非ともにとこはり申に付、このころ少々裏書をいたし候(『月感大徳年譜』)
准秀上人は、興正寺の末寺の坊主たちが西本願寺の門主の流れに与することを嫌い、我われ末寺の坊主が拝む仏像は興正寺の門主の准秀上人が下してくれなければ、仏像そのものがなく、仏像を拝むことができないので、是非ともに仏像を下すようにと乞うために、裏書を添え坊主たちに仏像を下したのだといっています。興正寺の末寺の坊主が西本願寺を嫌ったとありますが、それについて准秀上人は、西本願寺が西吟の理解に依拠し誤った教えを説いているということと、西本願寺が興正寺の末寺に興正寺の門下を離れさせ西本願寺の直接の門下にしようとしてから嫌うのだと主張します。要は、西本願寺が誤った教えを説いていることから興正寺の末寺は西本願寺を嫌うので、その嫌われた西本願寺に代わって興正寺が本尊や御影を下しているのだと准秀上人はいうのです。
(熊野恒陽 記)