【百三十九】貝塚 その一 貝塚へは秀吉の命令で移転した

2019.09.20

 天正十一年(一五八三)七月、本願寺の顕如上人は紀伊国名草郡の鷺森から和泉国南郡の貝塚へと居所を移します。本願寺の親鸞聖人の御影もともに貝塚に移されました。顕如上人の移住にともなって、興正寺の顕尊上人も貝塚へと移ります。顕如上人、顕尊上人が大坂から鷺森に移ったのは天正八年(一五八〇)四月のことで、以来、三年ほどを鷺森で過ごしました。

 

 御門跡ヲ始申、御女房衆悉御船にて泉州貝塚ヘ御上著、御開山様無御恙御渡海、諸人群集有難由申
所也(『貝塚御座所日記』)

 

 顕如上人をはじめ一行は船で貝塚に来ました。一行を迎えるため、人びとが群集したとあります。貝塚には当初から本願寺門下の道場があり、道場を中心に寺内町もありました。顕如上人はその道場へと移ります。

 

 貝塚の道場がいつ開かれたのははっきりしませんが、天文十九年(一五五〇)八月にこの道場に下された絵像の方便法身像が伝えられており、顕如上人が移る三十年ほど前には確実にこの道場があったことが知られます。貝塚の地は海上交通においても重要な地で、織田信長と本願寺との戦いの際にも、本願寺と連携した毛利輝元の水軍はこの貝塚を活動の拠点としていましたし、重要な地であることから一揆勢が貝塚に船を寄せて立てこもるということもありました。そのため逆に貝塚は信長の攻撃の対象となり、天正五年(一五七七)、貝塚の町と道場は破却されることになります。貝塚の道場はその後、天正八年(一五八〇)となって再興されます。顕如上人が移ったのは、この再興された道場です。この道場は板屋道場と称されたといいます。

 

 顕如上人が貝塚に移ったのは、羽柴秀吉に移住を命じられたためです。顕如上人が移住する前の天正五年五月、秀吉は貝塚の寺内町に禁制を発給しています。戦乱が起きても、秀吉の軍勢が貝塚の寺内町で乱妨をはたらくことはないといった内容のもので、貝塚の町を保護するものとなっています。この後すぐに顕如上人が移住していることから、移住を前に秀吉が発給したものとみられています。移住後の行動をみても、移住後、本願寺はまず最初に秀吉に書状を送っています。

 

 貝塚への移住にあたり、移住の挨拶のための本願寺の使者は中村一氏のもとにも訪れています。一氏は秀吉配下の武将で、岸和田城の城主だった人物です。岸和田城は貝塚の近くの城で、秀吉の和泉支配の本拠となった所です。こののち一氏は返礼のため貝塚を訪ね、顕如上人、教如上人、顕尊上人と対面しています。

 

 秀吉が顕如上人を貝塚に移住させたのは、その後に行なわれる秀吉の紀州征伐と関係してのことだといわれています。紀州征伐は秀吉による紀伊への侵攻で、紀伊国に根をはる勢力を一掃するために行なわれたものです。寺院である根来寺、粉河寺、国人である玉置氏、それに本願寺と関わりの深い雑賀衆などが討伐の対象となりました。本願寺が紀伊にあったのなら、本願寺にも大きな影響を及ぼすことになります。

 

 紀伊は一人の戦国大名が一国を支配していた地域ではなく、幾つかの有力な勢力があって、それぞれが自分たちの領域を支配していたという地域です。根来寺、雑賀衆などがそれら紀伊に並び立っていた勢力です。なかでも根来寺は強力な武装集団を従えており、きわめて有力な勢力でした。根来寺の武装集団は根来衆といわれ、鉄砲を使うことで知られていました。根来衆は傭兵として紀伊以外の地域に赴くこともありました。

 

 紀伊の諸勢力は当初から秀吉と敵対していました。秀吉への対抗のため、根来衆が和泉に進出し、和泉での支配力を強めるという動きもみられました。こうしたなか、顕如上人は貝塚に移住します。和泉にあって、秀吉方として紀伊の勢力と対抗したのが中村一氏です。

 

 紀伊の諸勢力の秀吉への対抗は、その後、激しさを増し、天正十二年(一五八四)三月、秀吉が尾張に向け出陣した隙をついて、諸勢力は連合して岸和田を攻めるとともに、堺を占拠します。これに対し、秀吉は天正十三年(一五八五)三月、十万人もの軍勢を率いて紀伊を攻めます。出兵に際し、秀吉は貝塚の町に対し、町に兵を出入りさせないとの内容の禁制を発しています。紀伊の諸勢力もこの攻撃を耐えきることはできませんでした。秀吉はまず和泉にいた根来衆を倒すと、紀伊の根来寺を攻めます。根来寺は焼け落ち、次いで粉河寺も焼けました。雑賀も攻められ、雑賀も焼けます。秀吉はさらに攻撃を続け紀伊を平定しました。この紀州征伐により、本願寺を支えた武装集団、雑賀衆は紀伊の諸勢力とともに壊滅します。

 

(熊野恒陽記)

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