【二百十七】承応の鬩牆 その二十六 学寮の取り壊しを主張

2020.02.10

 興正寺と西本願寺の争いに公家の九条幸家と二条康道の二人が調停に乗り出します。二人は承応三年(一六五四)の七月十七日と二十四日の二度、西本願寺で良如上人と面談しますが、二十四日の面談で、良如上人は二人の調停案を拒絶しています。二人は七月十七日に天満にも使いを派遣し、准秀上人にも京都に上るように伝えていました。准秀上人は二十一日に京都に上っています。

 

同二十四日、又九条様、二条様、御成候テ、色々被仰候得共、学寮御クヅシノ儀ニツカヘ、相調不申候(『承応鬩牆記』)

 

 二十四日、九条幸家と二条康道が西本願寺を訪れ、いろいろと良如上人と話し合ったが、二人が示した学寮を取り壊すという話で話し合いが進まなくなり、調停は調わなかったとあります。調停案として、学寮を取り壊すということが持ち出され、良如上人がそれを拒否したのです。この学寮を取り壊すというのは准秀上人が要求したものです。学寮を取り壊すなら、京都に戻り、西本願寺との関係ももとのようにすると准秀上人は主張しました。九条幸家と二条康道の二人がそれを良如上人に伝えたのです。学寮は良如上人が希望して開設したものです。学寮を取り壊すなどということは、良如上人にしてみれば考えられないことでした。

 

 西吟は学寮の能化であり、月感と西吟の争いも学寮での西吟の講義の内容を月感が批判したことから始まったものです。准秀上人はこうしたことからも学寮を取り壊すように主張したのでしょうが、准秀上人が学寮の取り壊しを主張したのは良如上人が学寮を大事にしていることを承知の上であえて取り壊しを主張したのだと考えられます。准秀上人の不満はそれほどまでに膨れ上がっていたのです。西本願寺は准秀上人が本尊や御影を下していることをこれまでになかった新義の行ないだといってやめさせようとしましたが、准秀上人も学寮の建立は幕府に届けずになされた新義の行ないだとして、それを根拠に取り壊しを主張しました。

 

 この時は学寮が開設されてまだ十五年ほどで、学問研究の意義というものも十分に理解されず、学寮に批判的な見方をする人も多くいたようです。能化である西吟のことにしても、西吟を快く思っていなかった人は、月感に限らず、他にも大勢いました。西吟の振る舞いにも尊大なところがありました。承応三年七月十五日、御堂衆の金剛寺が良如上人のもとへ呼ばれています。金剛寺は承応二年(一六五三)から江戸にいて、七月十三日に京都に戻ったばかりでした。良如上人は金剛寺に江戸で月感と西吟の争いがどう受け止められているのかを尋ねましたが、金剛寺は江戸では、皆、西吟が誤っていると考えていると答えています。

 

 永照寺、非分、悉邪法ニ候、兎角此義ハ、屹度御改不被成候ハヽ、御法流ノ破滅タルベキト、諸坊主、門下迄、心底ヨリ存候(『承応鬩牆記』)

 

 西吟の説いているのは全くの邪法であり、これを改めなければ西本願寺の教えは滅んでしまうだろうと、坊主、門下は、皆、心底からそう思っているとあります。江戸では月感、および准秀上人が正しいとされていたのです。こう思っていた地域は多かったはずです。准秀上人はこうした人びとの思いを背にして、学寮を取り壊すべきだという主張をしたのです。

 

 この九条幸家、二条康道の二人と良如上人の話し合いがあってから少し経った八月の初め、准秀上人は九条幸家、二条康道、それに京都所司代の板倉重宗たちに「安心相違之覚書」と題された書付を送っています。これは良如上人の安心が真宗の本来の安心とは相違しているということを述べたものです。西本願寺が准秀上人を西本願寺に逆らう行動をしていると批判していることに対し、そうした行動をするのももとはといえば良如上人の安心が相違していることに原因があるのだ、ということを示すためにこの書付が記されました。

 

 准秀上人のこうした行為は西本願寺を刺激するものでした。西本願寺は八月十八日、江戸幕府の寺社奉行に准秀上人の非を訴える口上書を提出します。口上書には月感と西吟の論争が興正寺と西本願寺の争いへと展開していく経過と、その過程で興正寺がとった西本願寺をないがしろにする行動とが詳しく述べられています。西本願寺はこれより前の七月の初めにも幕府に興正寺のことを訴えましたが、正式に取り上げられることはありませんでした。幕府が動き出すのには時間がかかります。この訴えが幕府に取り上げられるのも、この後しばらくしてからのことです。

 

(熊野恒陽 記)

 

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