【二百二十三】承応の鬩牆 その三十二 寺社奉行の聞き取り
2020.07.29
准秀上人は明暦元年(一六五五)五月五日、江戸に到着します。良如上人は翌五月六日、江戸に到着しました。いよいよ准秀上人と良如上人の争いに対する江戸幕府の調停が始まるのです。
まず、行なわれたのは争いの詳細についての取り調べです。准秀上人、良如上人の到着から半月ほど経った、五月二十二日、幕府の役職者による西本願寺関係者、興正寺関係者への聞き取りが行なわれました。
今度両御門跡出入ノ儀、松平出雲殿御宿所へ、安藤右京殿、吉良殿、御寄候テ、御聞候・・・御門跡様ヨリハ下間宮内卿、上田織部ニ金光寺被添、早天ヨリ被遣(『承応鬩牆記』)
良如上人、准秀上人の争いについて、松平出雲の屋敷に安藤右京、吉良が集まり、聞き取りが行なわれ、西本願寺から下間宮内卿、上田織部の二人と金光寺とが遣わされたとあります。松平出雲とは松平右京守勝隆のことで、松平勝隆は幕府の寺社奉行です。安藤右京とは安藤右京亮重長のことで、安藤重長も寺社奉行です。江戸幕府の寺社奉行は一人だけ奉行がいたというのではなく、数人の奉行がおり、その数人で月ごとに当番を交代するという月番制がとられていました。寺社奉行の役所にしても、奉行所としての決まった役所があったわけではなく、当番の奉行の自邸が役所となりました。したがってここでも、寺社奉行である松平勝隆の屋敷にもう一人の寺社奉行である安藤重長と吉良が集まっているのです。吉良というのは吉良義冬のことです。吉良義冬は幕府の高家(こうけ)という役職をつとめていました。高家は幕府の儀礼をつかさどる役職で、京都の公家の接待などもこの高家が行ないます。高家となるのは幕府の旗本のなかでも名門の旗本だけです。役職だけではなく、高家をつとめることができる家格の旗本の家もまた高家といいます。門跡である良如上人、准秀上人に関わることなので、寺社奉行とともに高家の吉良義冬も聞き取りに加わっているのです。この三人に話を聞かれた下間宮内卿、上田織部は西本願寺の家臣で、金光寺は西本願寺の御堂衆です。
この時、話を聞かれたのは下間、上田、金光寺たちですが、松平勝隆、安藤重長たちはもともと良如上人にも、直接、話を聞こうとしていました。この前日、勝隆たちが良如上人のもとに使いを遣わした際には、良如上人にも自身が勝隆の屋敷に出向くように伝えていました。しかし、良如上人は体調を崩しており、下間、上田たちを勝隆の屋敷に遣わすだけで、自身が出向くということはありませんでした。下間、上田たちは朝早くから勝隆の屋敷を訪れ、昼前に話を聞かれました。詳しく話を聞かれたようです。このあと今度は准秀上人と興正寺の家臣たちが話を聞かれました。
其後未刻、興正寺殿御出候テ、下間式部卿、片岡與右衛門召出段候事御聞候ト也(『承応鬩牆記』)
西本願寺の家臣たちの聞き取りののち、未刻、すなわち午後の二時に准秀上人が座に出て、家臣の下間式部卿と片岡與右衛門が召し出されたとあります。家臣のうちの下間式部卿は興正寺の筆頭の家臣である下間重玄のことです。西本願寺の家臣たちの場合と同様に准秀上人も詳しく話を聞かれたようです。
この聞き取りのあと少し経ってから、月感が江戸へとやってきます。月感は准秀上人とともに天満にいましたが、この年の二月に、一旦、肥後へと帰っていました。そののち准秀上人が江戸に出立したため、肥後を立ち、五月二十日ころ、天満に戻ります。その後、五月二十四日に天満を出て、江戸へと向かっています。六月の前半には江戸に到着していたものとみられます。
松平勝隆たちが聞き取った話の内容は、勝隆たちからすぐに老中へと伝えられました。老中は幕府においては将軍に次ぐ役職です。老中は将軍のすぐ下にあって、幕府の全体を統轄していました。職掌は幕府の政務全般に及びます。寺社奉行は老中より下の地位にあります。勝隆たちは老中に命じられ聞き取りを行なっているのです。この老中も複数の老中がおり、月ごとに責任者が交代する月番制をとっていました。この時には、松平信綱、阿部忠秋、酒井忠清が老中で、酒井忠勝が大老でした。大老は老中よりも上の役職ですが、臨時に置かれる役職です。老中は重要な事柄の決定などでは互いに意見を交わす合議によって事柄を決定していました。良如上人と准秀上人の争いをどうするについても老中は話し合いをしました。そして、その後の七月五日、老中は合議にもとづき、争いの解決をはかるための具体的な行動を起こします。
(熊野恒陽 記)